黒い髪は星すら浮かばない夜空。
黒い瞳は何もかも飲み込むブラックホール。
誰かがぼんやりと海の中を見つめる女に対してそう言っていた。
その通りだと思った。
だってほら、俺たちの纏う黒なんかよりも遥かに黒い目が俺を映している。
魚はいいな、何も考えないで泳いでいればいいんだもん。
人間は海の世界を手元に置きたいから水族館なんて作ったんだろうか、この場所はまるで逆、人間館かな?
語呂悪……とか思いながらコーヒー片手に窓の外の海中を見つめる。
水族館に来たガキか、なんてレオンハルトに言われたのでイラついて無駄に長い足を蹴っ飛ばしたのは記憶に新しい。
嫌味しか言えねーガキか、鏡相手に言ってんの?
あわや乱闘、というところで直美やグレースに止められてレオンハルトは局長やエドに羽交い締めされていたっけか。
見た目こそ日本人らしい黒髪黒目で童顔だけど中身まで所謂大和撫子だと思うなよ、そんなもんは絶滅危惧種だ。
レオンハルトとすれ違えば舌打ちされるのでその度に私は中指立てるし、わざとぶつかられればおっと足が滑ったぁーなんて引っ掛けてやってるしさ。
日本人以外のスタッフは日本人のお淑やかさってなんだっけって毎回首を傾げてスペキャしている。
お淑やかさを求めんなこちとらヤンキー上がりだぞ。
サポートスタッフとしてここに来て三年くらいかな、よくもまあ、やんちゃしていたあのクソガキがここまでこれたと思うよ。
自分の過去のやんちゃを自慢するような情けない真似はしないけれど、警察にお世話になったことはない、正確には補導程度だけど。
コーヒーがまだ半分残っているし、煙草吸いに行こうかなと時計を確認した。
まだ休憩時間の範囲、煙草吸いに行っても戻って来る頃には休憩の終わる五分前だ。
よし、行こう。
貴重品を適当にポケットに突っ込んで席を立つ。
「あれ、どこ行くの?」
「煙草」
「行ってらっしゃい」
私に声をかけた直美にひらひらと手を振ってメインルームを出た。
海中にあるのに、人が歩くところに窓は本当に少ないと思う。
部屋にあってもいいのにね、窓くらいさ。
人によっては窓の代わりに大きな絵を飾っている人もいるんだろうか、私もそうだから。
しばらく歩いて数少ない喫煙所に辿り着いた。
二本くらい吸えるかな、と思って喫煙所のドアに手をかけると後ろから呼び止められる。
「あら、煙草?」
「あー……うん」
「私も一緒にいてもいいかしら?」
え、グレース煙草吸うの……意外。
私を呼び止めたグレースにそう思えばそれが伝わったのか、一緒にお話したいだけ、と言われた。
煙草臭くなってもしらないよ、と返して喫煙所のドアを開ける。
無機質な部屋。
煙草の匂いがして、換気扇がフルで動いている音がして、喫煙者へのささやかな気遣いか本土でも置いてあるような自販機がある部屋。
窓側や部屋の中央に吸殻入れがあって、私は一番奥の吸殻入れの近くへ行って壁に寄りかかった。
事故防止のためにメインルームにライターは持ち込めないから休憩の時に使うのはマッチだ。
最初は何回も失敗してだめにしたこともあったけど、今では慣れてマッチの先端と箱の横を手前に引くように擦るだけで火をつけられるようになったんだよね。
咥えた煙草の先に火をつけて、それから手を振ってマッチの火を消してからそれを吸殻入れに放り込む。
フィルター越しに大きく息と煙を吸い込んで、同じように息と煙を吐き出した。
そんな私をグレースは綺麗な目を丸くして見ている。
「……見ていたって何も出ないよ」
「ああ、ごめんなさい。あなたからいつも香ばしい匂いがするからどんな香水つけているのかって思っていたけど、煙草だったのね」
まあ、消臭剤かけても匂いって残るからな。
遠慮なく私の隣にやってきたグレースから離すように煙草を少し遠ざけた。
さすがに配慮のできる喫煙者なので。
つーかちっかい、あんた私よりも背ェ高いんだから華奢っぽくても威圧感あるのわかってくんないかな。
平均的な身長なもんで、直美よりも低いんですよ。
煙草咥えてんのに真正面から私の顔覗いているし。
「なに?」
「やっぱり、綺麗だと思って」
「なにが?」
「ふふ、知らない?あなたの髪は星の浮かばない夜空で、目はブラックホールみたいなんですって」
「なんじゃそら」
そんなん言ったら日本人全員そうじゃん。
グレースから顔を逸らして煙を吐き出す。
人にかけちゃいけませんってね、よく男の人が夜のお相手に誘いたくて煙吹きかけるとかあるけど、あれ今じゃただ馬鹿にしているだけだから。
短くなった煙草を吸殻入れに押し付けてから中に入れた。
二本目、と思ったけどグレースに調子狂わされるから終わりにしよう。
メインルームから持ってきていたコーヒーもそのまま飲み干してゴミ箱へ。
「戻る」
「まだもう一本吸えるんじゃない?」
「……早めに戻らないとうるさいのがいるでしょ」
レオンハルトとかレオンハルトとか。
そう言えばグレースは面白おかしく笑って、そうね、と同意して先に喫煙所を出た私の後ろから着いて来る。
「また着いて来てもいい?あなたともっと仲良くなりたいわ」
「好きにすれば……」
あまり構われるのは苦手なんだけどね。
休憩時間が終わるまでまだあるってのにメインルームに戻ったらレオンハルトから嫌味が飛んで来たので、うるせーたーこと小さく呟いて中指を立てれば局長から「やめないかふたりとも!」と怒られた。
私悪くないもん。
思えば最初からあの女の調子が悪い気はしていた。
「いつもいつもあんた私に突っかかってくるけど何?一周回って私のこと好きなわけ?好きな子いじめたいってやつ?引くんだけど」
その言葉に当事者以外がコーヒーを噴き出した。
あっぶね、素で笑っちまうところだったわ。
ちらりとその発言をした女に視線を向けると、据わった目で表情は真面目、もう片方の発言の先であるレオンハルトは信じられないものを見るような目をしている。
直美とエドはコーヒーまみれになったコンソールを拭いてはいるが、笑いを堪えているのか肩がぷるぷる震えていた。
そう来るか、まさかのそう来るかー。
元々気が強いのはここのスタッフ全員が周知していることだが、さすがにその発言は予想していなかったようだ。
なんなら「だからレオンハルトは突っかかっていたのか」「彼女より向こうの方がガキじゃん?」「いくら日本人は童顔とはいえちょっと絵面が……」とひそひそスタッフが小声で話している。
「ンなわけねーだろ!!頭沸いてんのか!!」
「は?至って真面目だが?そのまんま言葉返してやろうか?前も言ったけどてめーどこ見て話してんだ鏡でも見て自分に話してんのか」
ぶふ、また誰かがコーヒーを噴き出した。
女の口の悪さも周知の上だが、こうも切れ味が鋭いと笑ってしまう。
売り言葉に買い言葉、まあ先に喧嘩をふっかけたのはレオンハルトではあるが、口では敵わないと思ったのか女に一歩近寄ったのを見て直美と共に女に駆け寄った。
局長とエドはレオンハルトのところへ。
手は上げねぇと思うが、乱闘直前まで騒ぎが大きくなったことがあるから念の為。
少しお互い頭を冷やしなさいよ、といつものグレースの言葉を投げかけながら女を宥めるように後ろから方に手を置く。
……ん?なんか、熱い?
薄暗いメインルームだから気がつかなかった、よく見ればこの女顔赤いな?
直美も同じことを思ったのか、ぎゃあぎゃあ騒ぐレオンハルトは局長とエドに任せて女の額に手を当てた。
「あなた、熱あるじゃない!」
「うそ、その状態で今朝からあちこち動いていたの?」
女はサポートスタッフ、もちろんメインエンジニアの俺たち四人のサポートもするし、海に出てパシフィック・ブイの外側のメンテナンスも行える有能なスタッフだ。
今日は朝から海に出て複数人と外壁に問題がないかチェックしていたはず。
それに、海から戻ってきてレオンハルトが遅いだなんだ文句を言っているのにイライラした様子で受け答えをしていて、体を温める暇もなく、なんなら髪をちゃんと乾かす時間もなく自分のデスクに座って……おいおい、完全にそれで熱出てんじゃねーか。
さらに思い出せば海に出る前から少し顔色は悪かったような気もする。
ふらつきそうな女を支え、大丈夫か聞けば弱々しく首を横に振った。
そりゃあ普段なら言わない言葉も出るわ。
そんな女を見てレオンハルトは気まずそうに顔を歪めるが、女はピッ、と中指をレオンハルトに立て、それを下ろしてから局長に体調悪いんで早抜けします、とよろよろメインルームを出て行く。
……いやいやいやいや。
それはだめだろ。
「ちょっとひとりじゃ……!」
「直美、私が着いて行くわ」
「え、ええ、ありがとうグレース」
正直、あの女が作るだけ作った複雑な空気の流れる空間と、あの女の世話するのなら後者の方がマシだと思う。
酷いもんだ、主にレオンハルトが可哀想で。
普段見下しているバチが当たったな。
さて、問題の女だが、よろよろしていたにしてはしっかりとした足取りで居住フロアに向かっていた。
待ってと声をかければ、据わった黒い瞳がこちらへ向く。
相変わらず、誰かが形容したブラックホールのような、底なしの黒い瞳。
「……何」
「部屋まで送っていくわ」
「いや別にひとりで問題ないんだけど」
「よろよろじゃない、熱だってあるでしょう?」
「寝てれば治る」
治らねーよばーか!
そう言いたいのを堪えて思ったよりも小柄な体を支えた。
ほら体を預けて、と有無を言わさずに言えば少しだけ俺に体を預ける。
なんだったかな、こいつの経歴調べたけどわかったのはただのヤンキー上がりのエンジニアってしかわからなかったんだよな。
特に優れているわけではない、器用貧乏っつーの?
俺たちのようにシステムエンジニアってだけじゃなく、どちらかと言えば機械系のエンジニアだ。
だからパシフィック・ブイそのもののメンテナンスもできる。
ここに引き抜かれるまでは車からパソコンまで、大型小型問わずに組み立てやメンテナンスもやってたんだと。
機械系か……組織にいるかと言われれば、直美の開発したシステムと天秤にかけりゃ重要度は遥かに低いか。
「……なんか、グレース思ったよりも力持ち?」
熱に浮かされたような声で女がそう問いかける。
やっべ、思ったよりも近すぎたか?
「ええ、一時鍛えていたのよ」
「ふぅん……」
自分で振っておいてそれだけかよ。
女の部屋にやって来れば、女が慣れたように鍵を開けた。
そのまま俺も入り、同じ間取りの部屋だからベッドまで迷わず一直線。
「何か飲める?」
「冷蔵庫に水入ってる」
「薬は?」
「テーブルのピルケース」
「着替えなさいよ」
ベッドに腰かけた女に言えば、のろのろと女は着ていたワイシャツに指をかけて外していく。
目の保養……じゃなかった、警戒心を持てと言いたいが、女相手に警戒心なんて持たないか。
なるべく見ないように背を向けて備え付けの冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し、近くに伏せてあるグラスを手にした。
言われた通り、テーブルの上には黒いピルケース。
こいつ、ちょっとしたものでも黒いものを好むんだな。
ネイルだって、手も足も黒のマットネイルだ。
「体がしんどいなら無理しないの。レオンハルトだってわかっていればあそこまで言わないわよ」
「わかってても言うと思うが?中途半端なビルみてーな髪しやがって……あンのクソが……」
口悪ィな。
上下を黒のスウェットに着替えた女が舌打ちしながら纏めていた髪を解く。
ばさっと広がったそれは、確かに夜空のようで。
海から上がったばかりだと、雫が煌めく星のように綺麗なのだろう。
……ああ、なんとなくあの男が突っかかる理由がわかった。
あの男も魅せられたのだろうか。
日本人特有の、黒い髪と黒い瞳に。
飲まれてたまるかと、抵抗した結果ああやって突っかかっているんじゃねえだろうか。
そういえば、日本人以外のスタッフは、こいつとすれ違う度に目を奪われているような、そんな気がする。
飲まれてたまるか。
水の入ったグラスとピルケースを渡せば、女はピルケースから錠剤をひとつ取り出してそれを口に含み、そのまま水と一緒に飲み干した。
「寝る?」
「寝る」
「何か欲しいものはある?」
「特には」
嘘つけ。
グラスを置いてもぞもぞとベッドに潜り込んだ女がこちらに背を向ける。
……わかってんのかなァ、グレースは女だけど、俺は男だぞ。
いや、知らないか。
「ゆっくり休んでね」
「……ん」
そっと艶のある黒髪に手を伸ばして撫でた。
思ったよりも、夜空に手が届くもんだな。
「治った」
「うっそだろ、昨日の今日だぞ」
「37.1度だから問題ないよエド」
「問題しかねえだろ、とっとと帰れガキ」
「お前がガキだろティーンエイジャーか」
「いや、本当に無理しなくていいんだからな?」
「大丈夫です、ありがとうございます局長」
「午後は部屋に帰るのよ、無理しないで」
「直美もありがとう」
うっそだろ、普通今日も休むだろ。
女は他のスタッフたちにも声をかけられ、ひとつひとつそれに答えるとそのまま自分のデスクに腰かける。
あの後、女の部屋の鍵が開いたままだったのでスポドリやらゼリーやら買いに行ったが、声をかけても女はぐっすりと眠ったままだった。
まあ、本人がいいならいいか。
「グレース」
ふと、女に声をかけられて女の方へ向く。
すると女の手にあった缶コーヒーがこちらへ投げられた。
パシフィック・ブイの自販機で売っているやつ。
「昨日はありがとう」
「……ええ、でも直美の言うように無理はしちゃだめよ」
こいつなりの感謝ってか。
そういうのなんて言うか知ってる。
ツンデレってんだろ。
またあれこれと理由をつけて傍に行ってやろうかな。
夜空には手が届く。
ブラックホールに飲まれなきゃ、怖いもんじゃない。
サポートスタッフの女の子
多分ピンガと変わらないくらいの歳。
童顔だから女子高生くらいには見えるかもしれない。
黒髪黒目の日本人、喫煙者。
サポートスタッフとしてパシフィック・ブイで働いている。
パソコン業務も機械のメンテナンスも得意。
レオンハルトに嫌味を言われればすぐ噛み付くのでパシフィック・ブイの問題児と言われているとかいないとか。
ピンガ
グレースとしてパシフィック・ブイに潜入中。
毛色の変わったやつがいるなーってちょっかい出したいお年頃。
女の子とレオンハルトの言い合いを聞いては爆笑するのを堪えている、笑ってはいけないパシフィック・ブイ24時をひとりでやってる、笑うと素の声になるから。
太陽に近づこうとした青年は落ちるけれど、夜空に近づこうとした青年は落ちるのだろうか。