3人とも未熟者だった頃の話

 ぴゃああああああと耳を押さえて泣き出した幼いその子を見て俺と山田は「やべっ」と思った。そこに転がってる敵なんかより、この子の耳から流れてる赤いものの方が衝撃的だった。
 些細なことが始まりだった。同級生を通じて知り合った幼い女の子と公園で遊ぶ、学校帰りのいつの間にか出来ていた習慣。家にいても父親は仕事へ、母親は生まれたばかりの一番下の妹に構いっぱなしでつまらないんだとか。同級生であるこの子の姉だって、学級委員長で帰りが俺達より遅い。個性が発現したとはいえ、そこまで子どもに面白味のあるものではなかったから、保育園の子たちと遊んでもつまらないと言われて自分もつまらなかったらしい。
「ただひかったり、すこしかたちがちがうだけでじまんするの。名前よりちからないくせにじまんするんだもん、つまんない」
 名前は唇を尖らせて砂場で作った山にトンネルを作る。同級生とは似ても似つかないこの性格は誰に似たのだろう。見た目はそこそこ似てるのに。そんな名前がぶうぶう文句を言う度に山田がよしよしと頭を撫でた。それは悪い気はしないらしく、もっと、と頭を突き出す。
「そろそろ帰るか? 途中でアイスでも買ってやるよ」
「ひーちゃんのおごり?」
「おう!」
「悪いなひーちゃん」
「や め ろ」
 その前に泥だらけの手を洗ってこいよ、と山田が言うと明るい表情になった名前は水道へ駆けて行った。時刻はそろそろ夕方の5時。保育園児が帰るには少し遅い時間になったが、俺達が一緒なら親御さんも心配しないだろう。そう思って油断していたのが悪かった、俺たちの落ち度だ。少し水道に手を洗いに行くだけだから、と目を離した隙にどっかから逃げてきた敵に捕まっていた名前。なんとかしようにも敵は名前を盾にじりじりと距離を取っていて、打つ手が見当たらない。なにより、俺達はヒーロー科に通いたての高校生だ。べちべちと敵の腕を叩く名前は個性を使うところまで頭が回らないのだろう、何せ保育園児の女の子。ああでも、個性を使っても俺たちと同じくらいの力しか出ないのだ。どの道敵わない。やれること、やるべきことは──
「俺が個性で怯ませるから、その間にお前があの子取り戻せよ」
「わかった」
 俺の個性は元々異形の個性に効果はない。ならできることはひとつ。山田の個性で怯ませて、俺が名前を取り戻し、それから逃げる。プロの現着にどれくらいかかるかわからないが、今やれるのはそれだ。距離を広げていく敵と、泣き出しそうな顔で抵抗をしている名前を見てから山田と視線を交わし、すぐに行動に移した。

「こりゃ鼓膜が破れてるねぇ……ああよしよし、頑張った頑張った」
 プロヒーローがあの敵を確保したのかは知らない。その前に俺たちはこれ以上出ないんじゃないかって速さで学校に戻り、残っていたリカバリーガールに名前を見せた。大方山田の個性で鼓膜が破れたのだろうと、リカバリーガールは個性で名前を治してその小さな手に飴を乗せる。泣き腫らした顔の名前は、俺にぎゅっとしがみついたまま。真っ青な顔の山田は保健室の入口近くで突っ立って、名前から視線を逸らしていた。そりゃあ、あんなに泣く名前を見るのは初めてだ。転んだって保育園でいじめられたってケロッとした顔で泣かなかっただのやり返しただの報告をするくらい、肝が据わっているというかなんというか。
「お嬢ちゃんの個性だろうねぇ……回復速度が遥かに早い。この子の個性は?」
「自分の身体能力を向上させる、だったと思います」
「ああ、ならそれだ。自分の細胞増殖のスピードを個性で無意識に上げたんだろう」
 名前はもらった飴の包み紙を開いてコロコロと口の中で転がす。それでもしがみついている手は強いままだから、あやすように背を摩った。まるで猫みたいに丸くなってさらにくっつこうとしているところが可愛らしい。──さて、問題は山田だ。自分の個性で守るはずが逆に傷つけてしまった。ショックなのだろう。俺が知ることは、きっとまだまだ先なのだろうけど。ひしっとしがみついていた名前は急に顔を上げた。視線の先は、山田へ。
「……ひーちゃん」
「お、おう……」
「たすけてくれて、ありがと……しょーちゃんも」
「……ああ」
 か細い声。言った後に恥ずかしくなったのか、俺の胸に顔を埋めるようにして名前は顔を隠す。真っ青だった山田の顔は、少し赤くなるくらいに戻っていた。それからへにゃ、と表情を和らげる。
「さあ、暗くなるから帰んなさい」
「はい、ありがとうございました」
「……おばちゃんありがとう」
「はいはい」
 名前を抱き上げ、リカバリーガールに頭を下げて山田と保健室を出た。まだ口の中に残ってる飴をコロコロと転がす名前は、すっかりいつも通りらしい。ただ、甘えるように俺にしがみついてすりすりと頭を擦りつけてくる。いつもより素直だな。小さい子特有の柔らかさが心地よい。すっかり日が暮れてしまった空を見て、山田がポケットから携帯を取り出してアドレス帳から素早くひとつの名前を選択する。
「あ、名字か? そうそう、名前のことなんだけど──」
 山田の携帯から怒号が聞こえた。あいつが怒鳴るなんて珍しい。これは、あれだな。俺らがあいつに怒られることを覚悟しなければ。ひーちゃんどうしたの? と名前が俺に聞いてくる。何でもないよと返して、その小さな背中をポンポンと叩いた。

「……なんだよ夢オチかよ」
「起きて早々なんだよお前は」
「うるさい話しかけんな死柄木。余韻に浸らせろ」
「何の話だクソ女」
「黙れクソ野郎」
「居眠り終わったと思ったら喧嘩か? 元気だなストレングス」
「その名前で呼ぶなエセマジシャン」
 どいつもこいつも……! ──懐かしい夢を見た。子どもの頃、イレイザーヘッドをしょーちゃんと、プレゼント・マイクをひーちゃんと呼んでいた頃の。痛かったなあ、ひーちゃんの個性で鼓膜破れたのは。でも治してもらったし、その後しょーちゃんに好きなだけ甘えることができたんだ。子どもながらに得の方が多いって感じてた。敵? ひーちゃんの個性で私以上にダメージ受けて伸びてた、と思う。カウンターに顔を突っ伏して、黒霧に飲み物を頼んだ。こんな立場じゃなかったらもう少し惰眠を貪るところなのに。ひーちゃんには会ってないけど、もしも会ったら容赦なく攻撃されるのかな、また鼓膜破れんのかな。思わず自分の耳に触れ、形を確かめるように撫でてその手を下ろす。
「でも本当にどうしたんです? 名前ちゃん、おセンチ?」
「ほっとけ、どうせいつもの泣き言だろ」
 両側に死柄木とトガが挟むように座った。死柄木は私の耳を人差し指と親指で挟むように触れると、そのままふにふにと耳朶を弄る。トガは「慰めようか名前ちゃん」なんて言いながら私の頭を撫でていた。好き勝手しやがってお前ら。どーせおセンチですよいつもの泣き言ですよ。私はいつだってあの時に帰りたい。知らなかった何も頃がいい。あーおセンチになると涙腺イカれる。
「……きえたい……」
「それは困る。しっかり働いて用済みになってから消えてくれ」
「マジお前ら全員道連れにすっからな……」
 目が合った死柄木を睨み付ければ死柄木はにんまりと笑った。

2023年7月28日