事故チューしてから様子がおかしいんだがそもそも女の子同士じゃないってのは彼しか知らない

まあただの事故よ事故。
いつもの日常だった。
私がレオンハルトに嫌味を言われたらそれに言い返して、お互い気は長くないからすぐ手が出るかどうかってところをメインエンジニアの直美とグレースとエドとそれから局長で止める。
この野郎日本の代表的な漫画に出てくるキャラの色違いみてーな頭しやがって。
直美と局長に止められながら私はレオンハルトに中指を立てながら舌を出すし、レオンハルトは私の胸倉を掴もうと手を伸ばした。
まあそんな時に当たりどころが悪かったのかな。
グレースがその手にぶつかって体勢を崩して私とぶつかったんだ。
まだ体と体がぶつかるならいいよ。
どこがぶつかったと思う?
口と口ですね。
別に私は口と口がぶつかった程度で狼狽えるような豆腐メンタルはしてないので、ただ勢いあって痛かったなーとしか。
けれど、相手は、グレースは別らしい。
私から離れて、一瞬の間を置いてグレースの顔が真っ赤になる。
……おっとぉ?
グレースの様子に気づいた他の四人もマジかみたいな顔でグレースをガン見した。

「グレース……?」

恐る恐る直美が声をかけると、ハッと我に返ったグレースはごめんなさい!と言葉を口にしてメインルームから走り去って行く。
……えっ、何事?もしかしてあんな可愛い顔してチュー初めてだったりするん?
すっかり今の事故チュー事件で私とレオンハルトの毒気は抜かれ、思わず顔を見合わせて仕事に戻るか……そうしよう……とそれぞれのデスクに戻った。
近くのスタッフにお前何したん?みたいなことを聞かれたけど、レオンハルトがグレースにぶつかったらそのままグレースと私が事故チューしたとしか……
思わず自分の唇を触ったけれど、最近海中に出てボンベ咥えているしケアも疎かにしているからガサガサだし、なんなら煙草吸ってきた後に消臭剤もしないし口直しの飴も舐めてなかったから煙草臭かっただろうな。
グレースの唇の方が柔らかかったし、なんかいい匂いした。
うわこれただの変態の発言になるわ黙っとこ。
しばらくグレースは戻って来なかったし、私から謝って変に意識させちゃうのも可哀想かなと思う、会ったら唇痛かった?程度にしとく。
それでもレオンハルトはこちらを睨んでいたのでいつものように中指立ててやればデスクから乗り出して怒鳴り始め、やるかこの野郎と私もデスクから乗り出せばとうとう局長の本気のお叱りが飛んできた。
わたし悪くない、すぐ突っかかってくるレオンハルトが悪い。
本当に相性悪いなふたりは、とエドが呆れたように溜め息を吐く。
相手がお淑やかな大和撫子ならこうはならんけどな、すまんな!ヤンキー上がりの気の強い問題児の女で!!

 

マジかマジかマジか……!
駆け込んだのはいつも使っている女子トイレ。
柄にもなく熱く赤くなる顔が鏡に映っている。
レオンハルトの野郎、いや、あそこで体勢を立て直し損ねた俺も悪いけど!
でも、だからって、あの女とキスするとか……!
至近距離にある見開かれた真っ黒な瞳、思ったよりもガサガサで、煙草のクソまずい味とほんのりと本人から漂う匂い。
日本人ってのはキスのひとつやふたつで恥じらうんじゃねえのかよ、あの女、びっくりしたように目を丸くしているだけだったぞ。
飲まれた。
完全に飲まれてしまった。
底なしの黒い瞳。
特別可愛いだとか綺麗だとか、そういう女じゃなくても……いやよく見りゃ美人だけど、あの黒い目はだめだ。
思ったよりも鮮やかに俺を映していて、何にも染まらないはずの黒い瞳が色を映して。

「あークソ……」

女なら唇のケアくらいしろよとか、女とのキスがクソまずい煙草の味とかありえねえとか、思うことはいろいろあるけど。
だめだ。
飲まれた。
あのブラックホールに。
底なし沼なんか生ぬるい。
沼ならまだ誰かの手があれば引き上げてもらえる。
けれど、ブラックホールは誰かの手があっても抜け出せない。
飲まれたら最後、本当にそこで終わり。
いくら俺が酒の名前を冠していても、たとえ飲まれてしまっても、酒は吐き出せるじゃねえか。
元々の土俵が違うんだよチートか。
本人に言ったところで、口にはせずとも何言ってんだこいつ、みたいな顔をするに決まっている。
どんな顔して戻ればいいのか、ピンガもグレースもどの道同じ顔になるだろうが。
どのくらい呆然としていたか、そろそろ戻らないとさすがによくないな、と思って息を大きく吐いてから女子トイレを出た。
スマートフォンで時間を確認すれば、いつの間にか休憩時間だ。
落ちつけ落ちつけ、あいつに会ったら「ぶつかってごめんなさい」で済む。
そう思って歩いていると、目の前をあの女が歩いていた。
……間が、悪い!!
手には煙草とマッチ、それからコーヒー。
喫煙所だな、行き先は。
追いかけなけりゃいいものの、思わず女を追いかけてしまう。
女が喫煙所のドアに手をかけ、それからこちらを振り向く。
口には既に煙草が咥えられていて、いやせめて中に入ってからにしろ。

「あ、グレース。もう平気?」

「平気って……?」

「私とぶつかって唇痛かったんじゃないの」

……ああ、そうだよ、そうだわこいつそういうやつだったよ!!
もういいよそれで。
顔に出ないように気をつけて、大丈夫よと返した。
どうやら煙草休憩らしい女について行けば、女は定位置の一番奥にある吸殻入れへ向かう。
壁に寄りかかり、慣れた手つきでマッチを擦って、それから咥えていた煙草に火をつければ、そのまま大きく息とフィルター越しの煙を口にした。
海中に出ることが多いからか、薄い唇は色づいていない。
それどころかこうして見るとガサガサになっているのもわかる。
いくらガキっぽいって言われれていてもそのくらい気を遣えっての。
……ガキっぽいのは、童顔だからかもしれねえけど。
何吸ってるの?と聞けば女はポケットに突っ込んでいた煙草を俺に渡した。
この喫煙所の自販機で売っているやつ、特別強くもない、本当に普通の煙草。
女がフィルターに歯を立てて噛めば、ぷちりと何か潰れた音がする。
メンソールが強くなるらしい、煙草のパッケージを見れば丸いカプセルを強調するような絵が描いてあった。
煙草のパッケージだけは、女ウケしそうな洒落たモンだと思う。
それを女に返せば、女は慣れた手でそれをポケットに戻した。

「おっ、さっきチューしたおふたりさんここで続きしてたのか?お熱いねー」

すると、喫煙所に入ってきたスタッフがそんなことを口にする。
うわ、殺そ。
俺が何か言おうとした時、女が俺の腕を引いた。
煙草を口にして、息と煙を吸って、そしてまた吐き出す。

「続きしてたら、何?見たいの?見せてやってもいいよ、見物料取るけど。てめーの社会的信用が料金な」

……つっよ。
煙を吐きながら、慣れたようなドスの効いた声。
いやいやそこは普通に怒るところじゃねえのか、なんだよ見せてやろうかって。
えっ、かっこいい……?
え、とスタッフが固まると女は俺の方へ振り向いて首に巻いているスカーフごと引っ張った。
ご丁寧に煙草は顔から避けるように持って、唇は重ならない。
ただ、キスしているのかと思わせるような至近距離。
さっきのようなまん丸になった目じゃなくて、少しだけ細められていて。
は?顔いいな?

「ば、ばっかじゃねーのか!?ンな公共の場でなにやってんだよ!!」

「下世話な話しかできねーやつが何言ってんだよ煙草吸わねえならさっさとメインルームに戻れクソ野郎」

日本の大和撫子どこ!?
ぎゃあぎゃあとスタッフは聞くに絶えない言葉を捲し立てるように並べて喫煙所から走り去って行った。
けっ、と悪い顔をして笑う女の手にはいつの間にかスマートフォンが握られている。
なるほど、これが社会的信用……見事に女のスマートフォンにそれは録音されていた。
後で局長に聞かせよーっと、そう呟く女が笑いながらポケットにスマートフォンを戻す。
思わずぽかんと女を見れば、ごめんねグレース、と表情を緩めた。
えっ……好き……
とち狂ってんじゃねえかと思う。
俺も、この女も。

「あいつ好きじゃなかったんだ。人が海から戻るのにわざと入口開かないように人の連絡無視したり、一緒に海に出る時に私の支度が終わってないのにわざと早く海水入れたりしてさ」

短くなった煙草を吸殻入れに入れて、それから新しい煙草を取り出す女。
ああ、聞いたことあるな。
何度か問題視されていたが、正直このパシフィック・ブイの外側より内側のシステムの方を重要視するからなあなあになっていたか。

「やだね、てめーより歳下でてめーより有能な人間に命に関わる嫌がらせするクソは」

「……そうね」

すげーわかる……!
えっ、なんかこの女と通じるもんありそう……!!
女の空いている手を握ったのはほとんど衝動的なものだ。
逃がしたくない、いや、そもそも俺が逃げられるところは通り過ぎてしまったけど。

「お、」

「お?」

「お友達から、いいかしら!?」

何言ってんだお前、と女の顔は確かに歪んでいた。

 

「はん、嫌いな人間追い出して満足かよ」

「違うだろ。嫌いな人間の前に、命に関わるところで作業している人間にくだらねー理由で嫌がらせしていた身の程知らずのクソ野郎を追い出したんだよ」

珍しく私のデスクまで来たレオンハルトにそう言えば、レオンハルトはなんとも言えない顔をした。
さっき、私とグレースをからかった野郎は私が海に出る度にくだらない嫌がらせをしていたスタッフだ。
最初は懇切丁寧に言ったよ、危ないからやめてくださいってな。
自分がメインエンジニアに選ばれなかったってだけで、メインエンジニアにも嫌がらせしていた馬鹿野郎。
ICPOによくなれたなと思う。
こういう大きな組織では個人のプライドは邪魔だと思わない?
いや、正確には個人のプライドと言っても自分の能力に自信を持って真摯にプログラミングやらメンテナンスをするなら邪魔にはならない。
けれど、それが他人にまで及ぶなら別だ。
嫌いな人間、というのならぶっちゃけレオンハルトもその括りになる。
ならレオンハルトとの違いは何か?
確かに気難しくて短気で差別発言も多いレオンハルトだけど、あのクソのように私の命に関わる嫌がらせは一度もしたことがない。
それだけ。
確かにレオンハルトがこっちに突っかかってくるからそれに応じるけどさ。
メインエンジニアとしてなら、レオンハルトはできた人間だ。

「別にあんなやついなくてもいいでしょう?レオンハルトだって、他にもエドやグレースだって陰湿な嫌がらせあったんだからさ。直美はシステムの第一人者だからそんなことされてなかったけど」

むしろ感謝してほしいね、私だからああやってクソ野郎の発言やらやられたことの証拠叩きつけてやれたんだから。
メインエンジニアの誰かを蹴落としてそこに成り代わろうとしていたようなやつだもん、ここにはいらないよ。
海中なんて、何か事故があるだけで危ない場所で作業する私たちには不必要だ。
レオンハルトはまあ一理あるな、と呟く。

「で、あれはなんだ?」

「あれ?」

「……グレースだよ、さっきからお前を熱っぽい視線で見つめては俺を視線で殺さんばかりに睨んでんだろ」

「……さあ?」

それは私の預かり知らねーところなんで。
さっさとデスクに戻れば?と手をしっしと振れば、レオンハルトは顔を歪めて匂い消してから戻ってこいクソガキ、と私に吐き捨てて自分のデスクに戻っていった。
クソガキはてめーだばーか。
んべー、とレオンハルトの後ろ姿に舌を出して椅子に腰かける。
ふとコンソールから顔を上げればグレースと目が合った。
……確かに、なんかこう、恋する乙女っての?
そんな顔でこっち見られても困るんだが。
ひらひらと手を振るグレースに簡単に手を振れば、まるでご主人を見つけた犬が尻尾を振るかのように大きく手を振る。
あんたそんな性格だったっけ?
私なんかしたかな……?
事故チューとさっきのチューもどきの動きだけじゃね?
首を傾げていると、直美が私のデスクにコーヒーを置きながら「あなたも罪な女の子ね」と微笑ましく笑いながら自分のデスクに向かって行った。
……いや何が?
コーヒーを口につけて、それから話してカップの口を見下ろす。
直美やグレースのように、口紅をつけてはいないから色なんてつかない。
だから指先でカップを拭うなんてことは、しなかった。
その仕草をする直美やグレースは大人の女性だなあ、とか思いながら。


サポートスタッフの女の子
グレース(ピンガ)と事故チューした。
なんかグレースの変な扉開いたような気がするんだが……?
多分おっぱいのついたイケメン枠、多分、ただのヤンキーみたいだけど。
お友達からって、女同士でそれ言う?
しかし女の子は知らないけどグレースはピンガなので、相手は男です。

ピンガ
グレースとしてパシフィック・ブイに潜入中、女の子と事故チューした。
しばらく女の子の唇がガサガサしていて煙草の味がしてーって悶々とずっと考えている。
そこへ喫煙所の至近距離に顔近づけられた件で「は?好き」となった。
混乱していてお友達からとか言い出した、女同士だと思っているのは女の子だけです。
グレースとして保湿リップとかプレゼントするんだろうけどもちろん下心はあり、女の子はそんなに唇ガサガサなんだな……と特に気づいていない。

2023年8月5日