その娘の柔らかな表情に柄にもなく惹かれた、有り体に言えば心を奪われたのだ。
名字家は前々から声をかけているが、なかなかいい返事をもらえたことがない。
由緒正しい旧華族、現在ではほとんどが政治家として政界に関わる家だ。
そんな名字家を含め、政界に関わる人間を集めて所有する豪華客船で懇親会を開いた。
その最中だ、私が名前と出会ったのは。
基本的にこの懇親会は家族同伴だ。
その方が政治家たちの家族という弱みは握りやすく、万が一が起こった時に始末する人間も把握できる。
私のやり方をそれはそれは理解している名字家は、いつだって私を警戒し、政界に関わる人間も限られていたが……
「こんばんは御堂さん、本日はお招きいただきありがとうございます」
「まさか応じてくれるとは思わんかったよ」
「今日は息子たちの社会勉強を兼ねて参りました。何卒よろしくお願いいたします」
名字が紹介したのは男とそっくりな青年二人と男の伴侶とそっくりな少年。
どうやら息子たちは名字家の人間らしく、政界とかかわりを選んだようだ。
私の手足になるなら何も言わぬが、やや敵意を向ける上の息子たちはそうではないだろう。
他にも挨拶に行って参りますので、と去った名字の背に視線を向けていたがおそらく長子の息子が振り返って私を睨んでいた。
やれやれ、若いとは怖いもの知らずだな。
他にも政治家たちと軽い会話をしながら時間を過ごしていると、足下に小さな髪飾りが転がって私の靴にぶつかる。
拾い上げたそれは桜の形をしていた。
「す、すみません……こっちに髪飾り転がってきてませんか……?」
先ほど名字が連れていた末息子に似ている女。
少しだけ眉を下げ、私の表情を窺うかのようにこちらを見上げていた。
ああ、きっとあの名字の娘だろう。
珍しい……それとも家族同伴と銘打った招待に従ったからか。
整った顔をしている、年は二十代程か。
前髪の一部を三つ編みにして耳にかけているが、少しだけ乱れていてそこから髪飾りが落ちたのだろう。
「この髪飾りかな?」
「あ!そうです!よかったぁ……」
手の中にある髪飾りを見せれば、それはそれは嬉しそうに表情を綻ばせた。
ああ、こんなにも屈託のない表情を向けられるのはいつ以来か。
だから、らしくない行動だった。
クリップで留めるタイプの髪飾りだ、ややこしい着け方は必要ない。
柔らかい表情の娘に手を伸ばし、桜の髪飾りをつけてやる。
「お嬢さん、とても似合っているよ」
「えへへ……ありがとうございます」
「どこのお嬢さんか聞いてもいいかね」
「名字です。娘の名字名前と申します」
やはりそうか。
父や兄たちと共に挨拶に来ていなかったところを見るに、名字が私と会わせたくなかったということか。
娘がいるとあいつの口から聞いたこともなかったな。
おそらく意図的に隠していた。
なんと娘思いで……しかしこの場に連れてきてしまうほどなんて愚直なのだろうか。
すぐ近くに名字の姿は見えない。
「お父上にはお世話になっているよ。まさか君のような綺麗な娘さんがいるとは思っていなかったがね」
「父や兄たちから仕事の話をされたことなくて……最近テレビでお見かけするような方しかお名前存じ上げていないんです、すみません」
言外に私のことは知らない、と。
思っていたよりも名字が徹底している様子が伝わってくる。
「それは失礼したね。御堂鋼作だ、君のお父上と……ああ、おじい様にお世話になったことがある」
「そうだったんですね。父と祖父がお世話になってます」
上品な所作で頭を下げたその肩口から艶のある髪が落ちた。
とても新鮮なものだ。
この世界に長年身を置き、畏怖や媚びではない目や表情を向けられるのは。
ほんの些細なことだった。
思い通りに名字という男を動かすためにこの娘を利用しようとも考えなかった。
ただ、欲しいと思ったのだ。
その柔らかな表情を、目を、声を、傍に置くことができたのなら、どれだけ満たされるだろうか。
まるで花を摘むような感覚で、私は名前を囲ったのだ。
畳の上で名前がうたた寝をしている。
座布団を二つに折り、それを枕にして無防備な姿を見せていた。
特に声をかけることはなく、起こさぬように静かに障子を閉めて名前の傍らに腰を下ろす。
少し崩れてしまった髪についたままの桜の髪留めを外して文机に置き、三つ編みにしている前髪も解いた。
柔らかで艶のある髪に指を通し、梳くように撫でる。
「……今日は、君に似合うものを持ってきたのだがな」
手にしていたものを髪留めの近くに置き、そう独り言ちた。
持ってきたのは桜の一枝だ。
庭にある桜の木から一枝だけ手折ってきた、桜の好きな名前にと。
出会った時ほど柔らかな表情を見られることはとても少なくなったが、少しでもその表情が見たいと名前のためだけに桜を手折る私を、名前はどう思うのだろうか。
きっとすぐに柔らかな表情を見せることはない。
少しだけ困惑して、でもほんの少しだけ緩めるのだろう。
老いた男が若い娘に、年甲斐もなく心を奪われるなど誰が思っただろうか。
どう思われようと別に構わんがね。
名前に寄り添うように身を横たえ、その細い体に腕を回した。