誰が為の桜か

縁側へ行こうとして障子を開く。
夜も遅い、今日は珍しく御堂さんも来ないからちょっとくらいお月見みたいなのをしてもいいかな。
埃ひとつない場所を這うようにして移動し、縁側に腰かけた。
満月ではないけれど、くっきりと月が見える。
昼間は暑かったけれど、夕方からは過ごしやすくなって季節の移り変わりを肌で感じた。
暑いのは苦手だから、このまま涼しくなってくれればいいのにな。
ここへ連れてこられて何度季節が変わったのか指折り数えるけれど、片手を通り過ぎそうになったから数えるのをやめる。
……虚しいというか、悲しいというか。
軽く季節は一周以上している事実に落ち込んでしまいそうだ。

「……御堂さん、来ないかな」

そして、この場所から逃げられない原因である人が来ないことに、寂しいと思う自分がいるのも。
交代で護衛をしている四人と比べたら、そりゃ、年齢が近いのもあるからあの四人の方がまだ関わりやすいけれど。
でも、あの四人は私を見ていない。
名字名前である私を、見ていない。
多分、彼らからしたら御堂さんのお気に入り、ってところだろうか。
秀でた何かがあるわけではないけれど、そのくらいわかるよ。
だって、お父さんとお母さんの私への接し方は、お兄ちゃんたちや弟とは違うんだもの。
愛されていないとは思ったことはない、愛されている自覚はある。
でも、違うの。
私は……私も……

「……女?」

ふと、知らない声が聞こえて月を見るために上げていた視線を下ろした。
知らない男の人。
この広い屋敷には知らない人もいるんだろうけど、でも、この人は、違う。
ここの、御堂さんの部下じゃ、ない。
急に心臓から血の気が引いていく感覚が私を襲う。
逃げなきゃ、でもどこへ?
縁側から下ろしていた足をゆっくりと上げて、後ずさりをするように少しずつ男から距離を取ろうと試みた。

「こんな離れに……御前の情婦……いや、もっと深いか……?」

男が一歩一歩近づいてくる。
どうしよう、どうしよう。
土足で縁側に上がった男の手には刃物が。
足が動けば走れるのに、もう少し距離を取れるのに。
私の目の前に立つ男が、私に手を伸ばし、胸倉を掴んで観察するようにまじまじと顔を覗き込んだ。

「……美しい……」

なんて?
頬を薄らと染めた男の呟きに素の自分が「何言ってんだこいつ」と嫌な顔をする。
意味がわからない、理解できない。
ぐい、とさらに胸倉を引かれた衝撃に思わず目を瞑ると、後ろから別の衝撃が私を襲った。

「──周防、今は殺すな」

「はいはいっと」

恐る恐る目を開こうとすると、その前に誰かの手が私の目を覆う。
……櫻田さん、かな?
あと周防くんの声もした。
なんなら男の短い悲鳴も聞こえたような気がした。

「名前嬢、怪我は?」

「し、てない、です」

「……失礼、部屋まで運ぼう」

ひょいと体が抱き上げられ、浮遊感に櫻田さんにしがみつく。
ちらりと見えた周防くんと目が合って、ひらひらと手を振られた。
……その手とは反対の手に、物騒なものが握られていたのは見ないフリしよう。
櫻田さんは部屋に入ると器用に足で障子を閉め、それから私をそっと畳の上に下ろす。
さっき胸倉を掴まれたことで乱れた襟元を直され、それから櫻田さんの手が私の耳を覆った。
割りとしっかり覆われている、多分、外の音が聞こえないようにだと思う。
それに櫻田さんの体で目の前は他に見えるものはない。
でも、わからない程馬鹿ではないつもりだ。
その障子の向こうで、周防くんが何をしているか、なんて。
自然と震える手を胸元で握り締める。
大丈夫、大丈夫。
周防くんも、櫻田さんも、怖いけれど。
でも、私に危害を加えないってわかっているから。
どのくらいの時間を櫻田さんに耳を覆われていたかはわからない、この部屋に時計はあるけど今の私からは見えないし。
櫻田さんが私から手を離すと、障子を薄く開いて外の様子を窺った。

「終わりましたよぉ。回収して、御前に報告行きます」

「ご苦労。報告は私が行こう、回収と後始末は念入りにな」

周防くんといくつか会話を交わした櫻田さんは私の頭を控えめに撫で「しばらく外には出ないように」と言い残して部屋を出る。

「お嬢は?」

「問題ない、怪我もないしな」

「そりゃあよかった」

めちゃくちゃ軽い言い方が聞こえた、欠伸をしながら言ってそうなんだけど。
……怖かった。
いや、あの、いつもと違う怖さって言えばいいのかな。
知らない人、凶器を手にした、明らかにそういう目的の人。
ここで命の危険を感じたことは少なかった、御堂さんの機嫌を損ねたら、て考えたことはあってもそういうことはなかったもの。
心臓が変な音を立てる。
ちょっと、落ち着こう。
安心できる場所、と押し入れに視線を向けた。

 

「名前嬢に怪我はありませんでした。侵入者が彼女のいる離れまで向かうとは予測しておらず、対応が遅れましたこと、申し訳ございません」

「よい、あれが無事ならば何も言うまい」

「ただ、酷く怯えている様子でした」

それはそうだろう。
胸倉を掴まれただけとはいえ、無力な娘が恐怖を覚えるのは当然のことだ。
櫻田の報告を聞き終え、下がってよいと声をかけてから腰を上げる。
今日はまだ名前の元を訪れてはいなかった。
遅くになり過ぎて床についた彼女を起こすのはしのびないと、訪れない予定ではあった。
名前のことだ、こんなことがあった夜には寝付けないだろう。
かわいそうでかわいらしい。
どこまでもどこにでもいる娘だ。
名前の過ごす離れの部屋にやってきて、声をかけてから障子を開く。
……おや。
部屋には布団が敷いてあるが、名前の姿が見えない。
不思議なことに、部屋の中央に残っているのは敷き布団と枕だけ、掛け布団はない。
……ああ、なるほど、どこに行ったのか、そこを選ぶとは可愛らしいではないか。
足音を消すことはせず、しかしゆっくりとそこへ近づいて襖に手をかけた。
そっと襖を滑らせ、それから畳に膝をつく。

「名前」

「……」

「怖かっただろう、おいで」

押し入れの下段で座布団に凭れかかり、掛け布団を頭から被った名前に声をかけた。
ゆっくり掛け布団から顔を出した名前の表情は硬い。
おいで、と腕を伸ばすとのろのろと体を起こした名前が素直に私の腕の中に納まる。
かわいそうに。
震える体を抱きしめてやれば、小さく鼻を啜る音が聞こえた。
布団ごと細い体を抱き上げ、敷かれている布団まで運んで腰を下ろす。

「大丈夫、今夜は私が共に過ごそう。そうすれば怖くないだろう?」

「……はい」

「あんな者に触れさせて悪かったね。もうないと約束しよう……何かしてほしいことは?」

「……ぎゅってして、背中撫でて、ほしい、です」

「もちろん、お安い御用だとも」

身を横たえ、名前を強く抱きしめてその背を撫でた。
今回は怖い思いをさせてしまったが、次はないだろう。
……ああ、でも。
怖いからと、それだけで私に縋ってくる様はなんてかわいそうでかわいらしいのだろうか。
私の名前、私のためだけの夜桜。
咲くのなら私のために、散るのなら私のために。
何人たりとも触れることはゆるさない。