その日が近かれ遠かれ来るのだとわかっている。
知らないふりをして、気づいていないふりをして、来ないでほしいという自分の気持ちに見て見ぬふりをして、ただ日々を送る。
「最近来ないなぁ……」
これから動物病院で飼い猫たちの健康診断があるので、嫌がる猫たちを捕獲してそれぞれのケージに入れていく。
そういえば最近天谷奴さん来ないな、なんてふと思った。
悲しそうに助けを求めて鳴く哀愁漂う先住の白猫と、何が起こったのかわかっていないスペキャ状態の新入りの黒猫。
ごめんね、君らはこれから病院だ。
特に黒猫はワクチンあるから打ってもらうんだ。
診察券を確認し、時計を見て時間を確認する。
まだ少し時間あるな、車で行くし大丈夫だろう。
彼のことが気になってトークアプリを開いてみても、10日くらい前に簡単にやりとりしたもので終わっていた。
ここのところお誘いもないし、最後に飲みに誘っても「忙しいから今度な」と断られるし。
仕事も新しい詐欺事件は起こってないから何もないと思いたい。
……便りがないのは元気な報せとは言うけれど、それはどちらかと言ったら若者向けの言葉かな。
一服する時間があるので、ケージの中の猫たちに慰めのつもりで少しおやつをあげて、自分は煙草とジッポに灰皿を手にベランダへ出た。
空は薄曇り、今日は降らないらしいけど明日は雨の予報。
少し湿った空気がまとわりつく。
煙草を咥え、ジッポで火をつける。
じじ、と火が煙草を先を赤く染め、少し強めに息と一緒に煙を吸い込んだ。
大きく肺に溜めて、それからふうっと吐き出す。
「……何もなければいいけどさ」
一介の刑事だって、あの人がただの詐欺師じゃないことくらいわかっているつもりだ。
お笑い芸人と教師と組んでディビジョンラップバトルに出るんだもん、簓くんと盧笙くんは元相方だからわかるけど、どう考えても天谷奴さんとの接点がわからない。
はあ、と溜め息を吐いても出ていくのは息と煙。
もどかしいような、寂しいような、そんはモヤモヤは出てってくれない。
「……」
仕方ない、だって私は刑事で天谷奴さんは詐欺師。
何の前触れもなく私の前から姿を消す可能性がないとは限らない、むしろそれが当たり前だろう。
私が思っているより唐突だっただけのこと。
そして私が思っているより天谷奴さんが大きな存在になっていたってこと。
煙草のフィルターに歯を立て、欄干に肘をついて大して高くない場所から街並みを眺める。
疎らな人並みに焦がれる姿は、ない。
最後に大きく息と煙を吸って、そのまま吐き出した。
さて、そろそろ病院の時間だ。
灰皿に短くなった煙草を押し付け、火を消してから部屋の中に戻る。
必要なものが入った鞄を肩にかけ、猫たちのケージを両手に持った。
にゃーにゃーにゃーにゃー助けを求める鳴き声にちょっと心が痛いけれど。
休日に履いているヒールに足を通し、猫たちのケージを持ったまま肘でドアノブに体重をかけて体でドアを押す。
「おっとォ」
「え……」
「よう名前、お出かけか?」
ドアに突っかかりを感じて顔を上げると、ついさっきまで考えていた相手がいた。
いつも通りの、変わらない様子で。
ちょっと嬉しくて表情が緩みそうになるけれど、唇を強めに噛み締めてにやけるのを堪える。
まあでもすぐわかりますよね。
「ロクとゼロの健康診断に行くところ」
「手伝いはいるか?」
「多分ゼロのワクチンあるから暴れても大丈夫なように押さえてほしいな」
「……引っ掻かれんじゃねえか俺」
「スペキャになってるからワンチャン大丈夫かも」
久しぶりだってのに変わらないやりとりに、今度こそ表情は隠せなくて緩んでしまった。
私の手から黒猫のケージを取った天谷奴さんは一度目を丸くすると、それから細めて私の頬に指先を当てる。
「……なんだ、寂しかったのか名前チャン?」
「……そりゃ、飲みに誘っても断られたらね」
悪かったな、なんて悪びれないで言う天谷奴さん。
……大丈夫、多分。
私の気持ちなんて、おみとおしでしょうけど。
鍵をかけ、アパートの駐車場に向かって歩き出した。
道中猫たちは相変わらず悲しそうに鳴いていたけど、天谷奴さんを見ては文句を言うように声音が変わる。
自分の車の前までついたら後部座席に猫たちを、落ち着くかわからないけれどタオルを被せておいた。
私は運転席、天谷奴さんは助手席。
当たり前が戻ってきたようで嬉しい。
「いつでも連絡くれりゃいいのによ」
「いつまで〝忙しい〟のかわからないからさ」
その日が近かれ遠かれ来るのだとわかっている。
知らないふりをして、気づいていないふりをして、来ないでほしいという自分の気持ちに見て見ぬふりをして……
けれど、そんな日が来るまで自分にとって心地よい時間を享受するんだ。
「あー……じゃあアレだな。今日はお前の家で飲むか?」
「もちろん、いくつかボトル買ったから飲もうよ」
来ないことを、願いながら。