大したものだと思った。
目が見えない、正確には見えても色が見えないその女は墨だけで色が想像できるような絵を描いていた。
生まれつきなのだという。
だから人に赤だの青だの言われても、それがどんな色なのかわからない、知らない、知っているのはそういう名前の色があるということだけ。
なのに、女が描く絵は鮮やかに見える。
カイドウさんの気紛れに鬼ヶ島へ呼ばれたのかと思えば、カイドウさんは部屋に入ることなくおれの背中を押して元来た廊下を戻っていった。
そこでこの女はおれのために呼んだのだと悟る。
女の自己紹介を無視する形になったのは今では悪かったと思う、名前を聞き逃した。
ただ、おれを見ての一言がどう考えても花の都で姫様と呼ばれる人間から出る言葉じゃなかったのは印象深い、絶対この女の素は違うだろ。
ただ黙々と女が絵を描いているのを見つめるだけ。
悪くはない。
余計なことは喋らないし、何か探るようにこちらを見もしない。
悪くはない時間だ。
色素のない白い髪には親近感を抱く。
白いのは髪だけではなく、筆を持つ手は白魚のように透き通り、顔も血の気がほとんどないように色白で、瞳ですら灰色だ。
存在が透き通っているようで、今にも溶けるんじゃねェかと思ってしまう。
なるほど、これがあのオロチが大切にしている姫様か。
言われれば納得もするが、同時にあのオロチの姪とは思えない振る舞いだ。
気に入った、というか女がただ絵を描く空間は妙に穏やかでカイドウさんに定期的に呼び出すのはいいのかと聞けば目を丸くしたカイドウさんは愉快そうに笑った。
花の都ではオロチのいる城ではなく長屋で暮らしている、特に親しい人間はおらず接するのは城から食事を作りに来た人間と絵を描く道具を買い付ける店の人間だけ。
普段から人と話す機会のない女は、初対面の時の一言意外は恐ろしく丁寧だ。
侍女にさえ、敬語ではなくとも丁寧に接していると思う。
変わり者、浮世離れ、そう言われるわけだ。
それが変わったのは、何度目か女を呼びつけた時だった。
その日の女が描く絵の線は荒く、筆先に十分な墨を含まずにいたから筆先が割れたのだ。
ああ、この女もそういう時があるのか。
初めて見た人間らしい感情の起伏だった。
それだけじゃない。
お付きの侍女が実はオロチや女を暗殺すべく長年潜入していたらしく、おれが席を外している間に女は殺されかけた。
これはまずいな、女の身に何かあったらオロチが何を言い出すか。
オロチの扱いが面倒になるのも困る、そう思って侍女を止めようと思った時、女が豹変した。
誰だあの女が繊細だとか言ったやつ。
お世辞にも綺麗とは言えない言葉遣いに、激昂していつもより赤くなった顔。
きっとこれがこの女の素の言葉だ、ありのままの姿だ。
お淑やかとは程遠い。
お淑やかで箱入り娘の女が自分を殺そうとしている人間にあそこまで口悪く罵るものか。
いくら火事場の馬鹿力という言葉があるとはいえ、それにしたって酷いもんだった。
硯まで投げつけるとは誰も思うまい。
障子を蹴り飛ばして部屋に入れば、おれを見た女が「あっ、やっべ聞かれてた」みたいな顔で固まったがそんな顔もできるんだな、お前。
おれの蹴り飛ばした障子を食らって昏倒した侍女だった女を部下に命じて拘束し、部屋から連れ出せば女は力が抜けたようにへたりこんだ。
その顔に浮かぶのは恐怖。
自分が殺されそうになったことにか、それともオロチの信頼していた侍女がそうでなかったことにか。
……可哀想だと、柄にもなく思ってしまった。
「……この国クソかよ」
なんとか搾り出せただろう言葉は、きっと女が常日頃から思っていたことだった。
さて、そんな女を花の都に帰すか考えたがこの怯えようでは帰るのは躊躇うだろう。
オロチにも報告がすぐ入る。
自分の信頼していた人間がいつ弓を引こうか機を窺っていたやつだった、おそらくオロチは自分の城に仕えている人間全てを尋問にかけるだろう。
そうやって長い年月をかけ、息を潜めている人間がひとりとは限らない。
試しに帰るかと聞けば、弱々しく怖いから帰りたくないです、と返ってきた。
そりゃそうだよな。
カイドウさんにも何があったのか伝えればオロチと女の気が済むまでは居させてやれと指示を受ける。
今、女は鬼ヶ島でひとり。
さすがにこの海賊だけの場所にひとりは苦痛だろう、いや、誰が敵なのかもわからない場所に帰る方が苦痛か。
オロチからも花の都での粛清が終わるまでは丁重に扱ってくれと頼まれたようだ。
大切にされている、あのオロチに。
そうして数日が経つが、女は筆を取ることはなく、宛てがわれた部屋の隅で蹲っているだけ。
表情は戻り、ぼんやりと畳を眺めるかたまに外へ目を向ける程度。
怖かったなら吐き出せばいい。
それができないのは、吐き出す相手がいないからだろうか。
オロチ以外に心を赦す人間はいないのだろうか。
時間が空いている時は女の好きそうな甘い菓子と茶を盆に乗せて部屋を訪れるが、女は小さく礼を口にしてそれでもおれがいる前では手をつけない。
まるで小動物だな、この前の威勢はどこへ行った。
花の都で何が起こっているのか伝えても、そうですかと呟くように返すだけ。
思っていたよりもオロチは怒り心頭だが、女には響いていないようだ。
だから、気紛れだった。
ここで聞いているのはおれだけだから、溜め込んでいることがあれば言ってみろと。
すると女はゆっくりと顔を上げ、ぽつぽつと言葉を零し始めた。
「自分たちのことだけ棚に上げて全部誰かに被せるのクソじゃないですか。私は良くも悪くも何もしてない。だって何かを為すような手段を知らないし持ってないんですから。いいですよね、この国の人間は。何年も前は光月おでんに背負わせて、今度はいつ来るかもわからない顔も知らない光月に背負わせて。それの矛先はおじ様じゃん、おじ様がなんでああなったのかも欠片も知らないくせに、知ろうともしないくせに、当事者はいないのに、全部全部誰かに押し付けりゃそりゃ楽ですよね、誰かのせいにして生きりゃいいだけなんだから」
「……悪政を働くオロチは悪くないってか?」
「いや、悪いに決まってるじゃないですか。でも無理なんですよ、この国の人間がおじ様のじい様が死ぬだけしゃ飽き足らずに黒炭の名前を持つ人間にずっと石を投げ続けているから、おじ様が止まったら罪のなかった黒炭が死んだ理由が消えてしまうでしょう?お前の血筋が悪いからって、キング様は石を投げ続けられてキング様は納得しますか?ああ仕方ないなって受け入れられます?抗うでしょう?おじ様なりの抵抗なんですよ、この国の現状って。いつか光月トキの言葉の通りに報いが来るまで、もしくはワノ国が滅ぶまで、おじ様は止まれないんですよ、そうしたのはワノ国自身でしょう?」
……思っていたよりも、女は聡明で素直なのかもしれない。
心底腹が立つ、と言いたげな顔の女は確かに黒炭の人間だ。
だが、世の理不尽をおかしいと言える女だった。
でも、と女は続ける。
「おじ様は私に強要しない、この国を憎めって、恨めって、一言も言ったことはない。だから私は何もしない。おじ様がそうあれと望まない。かと言っておじ様を止めもしない。ワノ国の希望が光月だと言うのなら、私の絶対はおじ様ですもの」
話し過ぎました、すみません。
そう言って頭を下げる女は少しスッキリした顔だ。
悪くねェ。
なんならオロチよりも清々しい。
「ああ、あとひとつ」
「なんだ」
「ねえ今どんな気持ち?って聞いてみたいですよね、クソみてーな国のクソみてーな人間に」
いい性格してるやがるなこの女。
本当に誰だ、姫様が繊細だとか言ったやつ。
絶対真逆だぞ。
薄らと笑った女の顔に唇が引き攣り、背筋が冷えた。
ストレス吐き出すって大事、めちゃくちゃ口悪かったけど!
さすがにちょっと言い過ぎた気もするけど、キングなら多分他言しないはず、多分、おそらく、きっと。
あんなことがあったからおじ様に帰ってこいと言われるかと思っていたけれど、おじ様は少し休んでからでいいと言われた。
多分あれだ、キングも言っていたけれど花の都で今回の侍女のように扮して潜り込んでいる人間がいないか炙り出しているんだろうな。
あの侍女だった人は次の日には花の都に戻されて、酷い拷問を受けてその後処刑されたそうだ。
……私にも、人が死ぬことを悼む気持ちはあるけれど、さすがに自分を殺そうとした人間がそうなるのならそこまで悼む気持ちはない。
だってそうじゃないか、自分を害されて、加害者に同情する人間がどのくらいいるの?
おじ様にももちろん当てはまることではあるけれどさ、いつかおじ様には報いが来るんだよ、だからおじ様は何年も怯えているんじゃない。
さてさて、さすがにずっと蹲っているのも飽きた。
考え事は一度やめよう。
何日か広げることもなかった道具を広げ、何か描こうと思案する。
ここはずっと冬なのかな、この世界のことはこの国がマジでクソなのしか知らないけれど、ちゃんと四季はあるのかな。
冬、春、雪、桜……雪景色に舞う桜なんか綺麗じゃない?見たことないけど。
前の世界では春が来る前に咲く桜だってあった。
この世界にもあるんじゃない?知らんけど。
侍女だった人に投げつけた硯はちゃんと丁寧に磨いた、それに水を少し流して墨を摩っていく。
なんだったかな、こうして絵を描く音だけを収録している動画とかあったな。
ASMRだっけ?あれ好き、夜めちゃくちゃ眠れる。
綺麗な音なんだよね、墨を磨る音、岩絵具を砕く音、紙の上を筆が滑る音。
あと水の音も好き、水中の音は凄く綺麗だった。
……思えば、この世界に生まれてから泳いだことないかも。
泳ぎ方は知っている、でも今泳いだら溺れそうだ。
頭の中で描きたい風景を思い浮かべてそれを紙の上に再現する。
雪が降っているのだから、空は薄曇りだ。
その中に雪と桜の花びらが舞っていて、きっと綺麗な色をしている、色は見えないけれど。
雪と桜の花びらが同じ時に舞うなんてとても綺麗だ、前の世界では見たことはなかったけれど、季節が曖昧になったような神秘さがある。
墨はなるべく薄くして、本当に薄く、薄く、色なんてないくらい、薄く。
雪や花びらに見せたいところは乾かないうちに和紙で拭えばそのまま白抜きされて、ただ形だけ気をつけて。
大体が形になってくると、私には形でしか雪と花びらの区別はつかないけれどなかなかいいんじゃないかな?
色つけたいけれど、こっち来る時は岩絵具持ってきてないからな……これは持って帰って花の都でピンクっぽい岩絵具を買ってから色付けよう。
久しぶりに描き上げた気がして達成感でいっぱい、ちょっと物足りないけれど。
……いくら色をつけたいからって自分の血をちょちょいとやるのはな……ただのメンヘラだからな……
「入るぞ」
そう思って首を傾げていると、キングが障子を開いて入ってきた。
崩していた姿勢を正したら「今さらそうしなくて構わねェ」と言われる。
……それもそう、この人にいろいろ言ったしな。
私の前に腰を下ろしたキングは見慣れぬ箱を私の前に置いた。
思わずその箱とキングを見比べると、あやしいもんじゃねェよと溜め息を吐かれる。
それを手に取ってみれば、何やら英語で書かれていた。
……いやね?外の国の言葉がどうかは知らないけれど、英語もあるんだなって思ってね?
てっきりこの世界に別の言葉があるとは思ってなかった。
思えばカイドウはともかく、キングの名前はどう考えてもワノ国の言葉じゃないしな。
ええっと……?多分ウォーターカラー……?であってるんかな?
なんじゃそら。
「外の国の絵具だ。お前が使っているものとは違ってチューブから取り出して水で濃度を調節して使う……らしい」
マジもんの透明水彩じゃん……!あるんだ……!
なんか感動した。
そっと箱を開けばいつも使っている岩絵具とは違う匂いがする。
確かにチューブに入っている、でも何色だこれ。
まだレッドとかブルーとかイエローとかならわかるけど、ちょっとややこしい英単語はわかりませんね。
試しに絵皿にいくつか中身を出して、それから指を差してキングに何色か聞く。
忘れないようにしとこ、ただの赤とか青とかじゃわからないから突っ込んで聞く、すみませんね、戸惑っていらっしゃるのがよーく伝わってくるわ。
「キング様の思う桜の色はどれですか?」
「答えにくい聞き方をするな」
「主観でも私にはあまり関係ないので」
「……本当にいい性格してやがる」
おっ?褒め言葉です?ありがとな!
もらった絵具の中には桜の色、つまりはピンクはないらしい。
やりにくそうにキングは赤と白の絵具を差して、混ぜればそれらしい色になるだろ、と言った。
確かに、混ぜれば変わるもんね。
岩絵具はこういう普通の透明水彩のような絵具と違って色が違うものは粒子の重さや大きさが違うから混ぜて使うことはほとんどない。
つまり、混色初体験。
赤と白なら混ぜればなんとなく濃さが変わるのはわかる、いける、はず。
キングに言われた通りに赤と白を水で濡らした筆で混ぜ、ムラがなくなったところでこれは?と逐一キングに訊ねた。
マスクで顔は見えないけど多分嫌な顔してんだろうな、いいじゃんこのくらい。
「……もう少し白が多くてもいいんじゃねェか。桜の花はかなり淡い色……おれが知っている桜は、だがな」
「なるほど」
どばっと広がる白に赤を少し垂らす程度がいいのかな。
目分量でいい、その淡いピンクになる配分は覚えておこう。
白を足したり水を足したりと調節して、納得のいく薄さになってから描いた絵にそれを塗っていく。
多分、水はかなり多い方が薄くなるな。
そこは墨と一緒、そんな気がする。
前世から通してもこの絵具を使うのは初めてだけど。
ベタ塗りをするのではなく白抜きをした箇所を縁取るように塗って、さらに水だけでぼやかした。
グラデーションっぽいし、光っているように見えるんじゃないかな、私にゃわからんけど。
一通り花びらの部分を塗ってからキングを見上げてどうですか?と聞いてみる。
「……重ね重ねで悪ィが」
「はい」
「本当に色はわからねェんだよな?」
「ええ、白と黒しかわかりませんので」
そんなに念を込めて聞かなくても、色は見えませんけど。
だよな、とキングは悩むように唸ったので私は何がなんだか察せずに首を傾げた。
余談だけど描いた絵はキングが気に入ったらしくそのまま持ってってしまったので、また今度似たような絵を描きたいなと思う。
黒炭の女の子
なんちゃって転生者。
ねえどんな気持ち?ねえどんな気持ちー!?って聞いてみたいと思うくらいにはいい性格しているかもしれない。本人としてはちょっとしたネタの気分。
おそらく透明水彩をもらってちょっと嬉しい、英語って使わないと忘れちゃうよねってことで簡単な英単語しか思い出せないのでキングに質問攻めをした。
キング
いや本当にとんでもねェ素だなこの女、とちょっと戦慄した。
そりゃあ、前世も含めていたらいい年も年ですからね。
彼女と過ごす時間は悪くないし、なんなら気に入っている。
ワノ国にはない絵具をわざわざ取り寄せて贈るくらいには。
そのうちそのまま攫っちゃうかもしれない、多分、きっと、おそらく。