私には、慰め方はわかりませぬ。
そう言ったあの子はいつものぼんやりとした表情を困ったように戸惑ったように、けれど、悲しそうにしておれの手を握った。
小さな手、指先は岩絵具を扱うようになってから薄らと皮膚に色が染み付いている、武器を握ることを知らない、箸や筆を取ることしか知らない幼い手だ。
何を言うでもなく、姪はおれの手を握ったままただ隣にいる。
愛というのは種類があるのを知っているか。
おれが小紫へ向けていたのは男女の情に近い愛だった。
小紫は姪と同じくらいか少し年下、もちろん本気で正妻にと考えていたのは事実。
だが、同時に友人のいないあの子にそれと等しい人間をつくってやれないかと思っていたのだ。
黒炭以外を信用できない我ら黒炭の人間が、誰かと親しくなりたいのなら同じ黒炭の人間しかいないだろうと。
おれの正妻ではあるが、年が近いのならあの子を気にかけている小紫とあの子は親しくなれるだろうと、そう思っていた。
おれがあの子へ向ける愛は親愛だ。
親しみと愛情、あの子のおじ様として、親から子への愛。
笑ってほしい、泣いてほしい、どうかこんな国に、黒炭に縛られずに生きてほしい。
ああ、先の言葉とは矛盾しているのはわかっている。
だが矛盾していても、誰がどう言おうと、最愛は小紫で親愛はあの子なのだ。
ワノ国の外に出られないのなら、出られないなりに生きてほしい。
その思いもある。
最愛と言えど優先順位が常に一番上にあるわけでもなし、最愛が美しい小紫でも、おれが一番考えているのはあの子のこと。
そのふたつの愛で生きていたはずだったのに、片方が欠けるだけでもこうも心が痛むのか。
このおれが、ワノ国を光月から奪い取った、黒炭オロチが。
おれに小紫を殺すつもりはなかった。
いつものように、将軍として、権力を振り翳して、人の目が多かったから形だけでもおれに逆らったことを謝る姿勢を取らせようとした。
それが、まさか喪うことになるとは、誰が思うものか。
狂死郎の判断は正しい、誰も責められまい。
けれど、けれど、もしも、もしも、ああ、ああ、後悔だけがおれを支配する。
「おじ様」
「……ああ」
「おじ様は、昔言ってくれましたよね。泣きたい時は素直に泣いてみろと、泣き方が下手くそな私にそう言ってくれました」
今はおじ様もそうではありませんか?
ああ、本当に、優しい子に育ってくれた。
子は親の鏡とはいうが、こんなにもおれに似ずに育ってくれて安心した。
ぽろぽろをおれの目から流れる雫を可愛らしい手ぬぐいを差し出して拭う。
小紫が死んだことは悲しい、だがこの子がこんなにも優しい子に育ってくれて嬉しい。
「すまぬ……お前に気を遣わせてしまったな」
「気にしないでおじ様、悲しい時は泣きたいものですもの」
ちり紙を差し出す姪からそれを受け取り盛大に鼻をかむ。
大丈夫だ、おれの可愛い姪は人の慰め方だってわかっているじゃないか。
この子は本当に変わった、もうどこででも生きていける、そう確信した。
「よいな、お前は光画を見てはならぬ。これから行われるのは処刑だ、お前はそのようなものを見てはならん。この国を凝縮したような醜い有り様など見てくれるな」
おじ様はそう言い残して羅刹町へ向かった。
昨日までは酷く落ち込んでいたけれど、今日はいつもの黒炭オロチとして立ち直ったようだ。
おじ様は小紫が何故斬り捨てられたのか教えてくれなかったけれど、その場にいた狂死郎本人とあの耳たぶめちゃくちゃ長い忍が教えてくれた。
忍の名前なんて覚えてませんとも、おじ様も教えてくれないしおじ様から言われているのか耳たぶの人も名乗らないし。
そうか、おじ様に歯向かったんだ、小紫様。
禿を守るために。
遊郭での小紫は腹黒い女だなんだ言われていたけれど、私と接する時はそんな面を見せたことはなかった。
本当に腹黒いのならそんなことするわけないと思う。
きっと小紫にとっておじ様を笑ってしまった禿は大切な人だったんじゃないかな。
じゃなきゃおじ様に歯向かうなんて、いくら気に入られている花魁だってできないよ。
小紫様の葬儀を行いながら誰かを殉死者として処刑するって言っていたけれど、光画見るなって言われたからどうなっているのか私に知る術はないな。
私に何ができるだろう、いや、できることなんてないんだけれども。
城にある自分の部屋で、紙を広げて墨を磨る。
……光画を見るなとは言われただけで、絵を描くなとは言われていない。
私は人を描いたことは、幼い頃におじ様の似顔絵を描いただけで他はない。
小紫と言えばなんだろう。
同じ名前の花かな。
彼女のように凄く華やかってわけではない、薄紫色の小さな花。
確か、実をつけることもあったっけ。
……でも、なんだか私と話している時はそんな華やかさとはかけ離れているように思えたから、似合っていると思うの。
無心でただ絵を描く。
私ができるのはそれだけだから。
色付ける岩絵具はここにはないから、薄くした墨で質感を出して、それから悼む言葉を添えて。
「……火、がほしいな」
描いた絵をくしゃくしゃにしないように手に持って、使用人を探すために部屋を出る。
近くにいた使用人に声をかけて小さな燭台をもらった。
触ってはだめですよと私の目のことを知る人に言われたけれど大丈夫でーす、さすがに触っちゃいけないのはわかってまーす。
室内でやったらとんでもねェことになるのは目に見えているので庭に面している適当な部屋から縁側を下り、草履に足を通した。
ふう、と大きく息を吐く。
届くかなんて知らねーよ、これは私の自己満足。
おじ様自ら出向くくらいだもの、小紫の葬儀と殉死者の処刑、絶対凄惨なものになるに決まっている。
それでも、それでも……
私を気にかけてくれた、本名を知らない花魁へ花を手向けてもいいだろう?
何事かと私を野次馬しに来るデリカシーのねェやつは放って、描いた絵に火をつけた。
ぱちぱちと音を立てて火が紙を侵食する。
亡き人への思いは、こうやって伝えるんでしょう?
火祭りの宙船だってそうじゃん。
じりじりと私の指先を火が炙り出したところで手を離せば、残りの紙を火が飲み込んで灰になって風に攫われた。
……いたい、火で炙られた指先が痛い。
「ひ、姫様!指先が……!」
「大丈夫、大した火傷じゃないです」
「しかし……!」
「……大丈夫って、言っているじゃないですか」
「あ、し、失礼しました!」
別にこれっぽっちも怒っていないけどさ。
感傷に浸ってるのを邪魔されたらいい気はしないじゃんよ。
近くの使用人にありがとうございます、と燭台を返して早足で駆け込むように部屋に戻る。
……変なの、あの侍女が死んだ時はこんなに辛くならなかった。
あの人と小紫の何が違うんだろうか。
人の命を忖度できるほど、私はできた人間じゃない。
優しいだのなんだの、外野は好き勝手に言いやがるけどさ、私のこと知らないだろ。
……あ、そうか。
小紫のこと、私おじ様のように気に入っていたのか。
年も近くて、周りにああやって話せる人っていなくて。
おじ様以外の人間は、私越しにおじ様を見て媚びを売る人間が多かったけれど、小紫はそうじゃなくて。
私のことを少しでも考えてくれていて。
認めるとストンと納得した。
……あーあ、昔からそうだったっけ、私って。
気づくのが遅かった。
遅過ぎた。
その人が死んで、それから気づくなんて鈍感にも程がある。
鈍感どころじゃねーじゃん、ただの馬鹿じゃん、失礼極め過ぎだろ。
今さら気づいたって小紫はいない。
それに悲しんだって、何可哀想ぶってんだか。
「……泣いたところで、その事実が変わるわけでもねェのに」
じわりと目が滲んで白黒の視界が揺れる。
目から雫が溢れる前に乱暴に拭った。
私が小紫の死に泣くことなんてゆるされないよ。
何を自分勝手な。
ぐしぐしと何度拭っても雫は溢れてくる。
泣くな、泣くな、そんな資格、私にはねェじゃん。
せめて、せめておじ様が帰って来るまでに泣き止めちくしょう。
自然と漏れてしまう口を押さえ、そのまま蹲る。
泣くな泣くな、マジで馬鹿になってんのか私の涙腺は。
私のものなんだから言うことくらい聞けよクソ。
それからしばらくして、おじ様が帰ってきた。
なんだか煮え切らない顔しているし、目元だって心做しか少し赤い。
「……大丈夫ですかおじ様、酷いお顔をされてます」
「……そういうお前も大丈夫か、目の周りが腫れておるぞ」
お互い人のことは言えないな。
思ったよりも小紫に入れ込んでいたようだ、お互いに。
光画は見なかっただろうなと心配そうにするおじ様に頷けば、おじ様はホッとしたように息を吐く。
さらに火祭り当日までは長屋に戻るなとも言われた。
えっ、せめて絵を描く道具は取りに行ってもいい?
あとキングからもらった簪もそのままだし……置き去りにするのはどっちも偲びないというか……
キングからもらった簪のことは伏せて聞けば、急いで取りに行っておいでと言われたので取りに行くことに。
今回はあの耳たぶの人がついて来てくれた。
いやー、ついて来てくれるのも自分で取りに行くのもいいんだけどね、頼むから駕籠は……お願いですからゆっくりで……安全運転で……酔うわ。
長屋に到着して、急いで道具を風呂敷に纏める。
この前買った筆と梅皿、それから墨と岩絵具と膠と……簪は、ちゃんと懐に。
菊の花、赤い菊の花。
菊の花言葉は高貴だったような気はするけど、色で花言葉は変わったっけ……
さすがに色別の花言葉は覚えていないや、花でさえたくさん種類があるのに、色別は途方もないな。
まあ、花言葉よりも簪を贈られるってところが……この件に関しては、重大なわけで。
いい年した女なわけで、そう捉えちゃったらどうするんだよ。
キングをそう見てるかと言われたら、私もわかんないけど。
気紛れで簪贈るような人じゃないだろうしな。
「殿方から簪を贈られたらどう思えばいいと思いますか?」
「……はい!?」
道具も纏めて城へ帰る道すがら、駕籠の中から耳たぶの人に言えばなんかびっくりしてた。
わー、なんかこの人が私のことでこんなに驚くの初めてじゃないかなー。
駕籠越しにいつ受け取ったのかどんな人から受け取ったのかめちゃくちゃ質問されるけど、これ正直に言って大丈夫かな。
「姫様……どこの輩か存じ上げませぬが……こう……大変失礼かもしれませぬが……騙されたりなどしてはおりませんか……」
そうだったらどんだけいいのかね。
キングが私を騙すメリットってある?
いや、全くないでしょ。
私がキングを騙すならともかくさ、キングが私を、なんて微塵も感じない。
私もキングを騙すメリットも全く感じねェけど。
いや、もしかしたら火祭りの日に鬼ヶ島へ来る口実かもしれないけれど、そこまでして私を呼ぶ必要あるか?
今まで私がいなくたって問題なかったじゃんよ。
なんて言えばいいんだろうか。
考え込むように黙っていると、駕籠の中からちらりと見えた耳たぶの人はわなわなしていた。
……そんなに?
「……姫様、他言無用にお願い致します。オロチ様の耳に入りましたら、ただでさえ今意気消沈のオロチ様にどんな打撃か……!」
とってもわかる。
だからおじ様じゃなくてあんたに聞いたんですよ。
ぶつぶつといつの間にそんな馬の骨が……護衛は何を……と呟いている耳たぶの人に重ね重ねすまんなと思いつつもふう、と息を吐いた。
マジレスすんなら護衛なんてその時いないようなモンだし、馬の骨は本人聞いたら多分怒るで。
耳たぶの人は少し落ち着いた様子を見せると、私に向かって駕籠へ声をかける。
「……姫様が、その男を本気で好いているのでしたら私めからは何も言いませぬ。ですが姫様はオロチ様の大切な姫様です。その意味をよくお考えてお答えを出してくださいませ」
……思ったよりも普通な答えが返ってきた。
けど答えを出す前になァ……あの人攫う宣言してるからなァ……
怖いっての。
普通攫う人間に攫う宣言するんか、よくわかんねーわ。
懐にしまっていた簪を取り出してそれを揺らす。
「好きではないのなら、受け取った簪は突っ返してやりなさい。けれど、その気持ちに応えるのでしたら応えなさい。忍の私から言えるのはそれだけです」
「……おじ様は、どう思われると思いますか?」
「あなたの決めたことをあの方は否定はしません。誰よりも何よりもあなた様のことを、オロチ様は思っておられます」
……そっか。
それもそうだ。
おじ様は私のこと、凄く大切にしてくれているもの。
「これをくれた方なんですけど」
「ええ」
「……キング様なんですよね、百獣海賊団の」
「今すぐ粉々にします故お渡しください」
言ってることとのちょっとした矛盾があるんだなあ……
豹変する過激派かよ、こっわ。
さあ!さあ!と駕籠越しに声を荒げる耳たぶの人こっわ……と思いながら簪に罪はないので……と簪を再び懐へ戻した。
まあ、本人に聞けばいいか。
世間知らずのふりして聞いてみよう。
そこでそんなつもりはなかったと言うと思うし……でも、さらっとだから?って聞かれても……困る、私はどう応えればいいんだ……!
その日まで、なんて言えばいいのか考えなきゃとも思いつつ、前のようにもうどうにでもなれよちくしょうと思いながら、揺れる駕籠の振動に堪えた。
黒炭の女の子
小紫のことは知らぬ間に好きだった、友人になれたらどんな未来があっただろう。
オロチの気持ちもわかっているけど、今世は誰かを慰めたことはないので慰めの言葉はかけられなかった。
ところで簪もらったんだけどどうすればいい?
赤い菊の花言葉を知ったらぶっ倒れるよ、多分。
黒炭オロチ
最愛と親愛どちらを取るのかと言われればおそらく親愛だけど、それでも最愛を失うのは辛かった。
福ロクジュ
耳たぶの人って呼ばれているのに気づいているのかいないのか。
将軍がオロチに代わってからは姫様を見守ってきたのでどこのどいつだうちの姫様に簪贈った不躾な輩は!って気持ちが大きい人。
火祭りに何が起こるかって、もうわかっているじゃないですか。
そういうこと。