ふと鼻腔を不思議な匂いが擽った。
目の前の女からではあるが、いつも女が使っている墨や岩絵具の匂いではない。
……変に指摘したらただの変態と認識されかねねェな。
今日はおしまいにしますね、と道具を片付け始める女にどう声をかけるか迷う。
「何か香でも焚いてるのか」
丁寧に梅皿を布に包み、筆の墨を不要な紙で拭っている女に声をかければ女は少しだけ目を丸くして「強いですか?」と襷を解いた袂に顔を寄せた。
ああよかった、声かけ一つ甘く見るとこいつは容赦なく態度に出すからな。
毎回思うが誰だこの女が繊細だなんて言ってるやつは。
別に何か意図があったわけではなく、ふと気づいたから声をかけただけだ。
確かワノ国では香水のようなものではなく、香木で着物へ匂いを焚き染めるんだったか。
珍しい、おれが思い返してもこの女は今までそんなことやってはいなかったはずだ。
誰かに香木をもらったのか、気まぐれか、定かではない。
「キング様のお嫌いな香りでした?最近趣向を凝らして絵を描く紙に白檀の香りをつけてほしいって注文をなさる版元がいて……昨日は遅くまで長屋で香を焚いていたんです」
よろしければどうぞ。
そう女がまだまっさらな紙をおれに差し出す。
確かに、紙自体に匂いがついているな。
女は墨や膠の匂いと混じっておすすめはしないんですけどね、と肩を竦めて溜め息をひとつ。
女が既に描き上げた絵を手にして顔に近づければ、確かになんとも言えない。
これは……白檀とやらの上品な匂いが特に膠の匂いに負けているような……
生臭いまではいかないが、なんだこれは。
「膠は岩絵具の接着剤のようなものです。けれど……まあ……原料は動物の骨や皮ですから……いくら薄めておいても、独特の匂いが……」
「……」
「そんな顔して私の指先見ないでください。さすがに残ってませんから」
つい指先に岩絵具の色が染みついている女の手を凝視していたら釘を刺された。
心配そうな顔で「え、残ってないよね?」と自分の指先の匂いを確認するかのように顔を寄せる姿はなんだか間抜けにも見える。
思わず手を伸ばした。
おれよりも遥かに細く、小さく、力加減を少しでも間違えれば折れるであろう女の手に。
生業柄日の下に出ることが少ないからか、それとも生来からか知らねェが極端に色が白い。
白魚のような、なんて比喩が似合うだろう。
その指先、人差し指と中指は岩絵具の赤で薄らと色づいていた。
マニキュアとはまた違った色、意図せずに色づいているもの。
この方が上品だと思う。
……こいつの名誉のために言っておくが、別に膠の匂いはしねェ、白檀の匂いだけだ。
「キング様、キング様、ちょっと痛いんですけれど。聞いてます?」
ぺちぺちとおれの手を叩く女に応じて手を離してやれば、女はぷらぷらと手を動かしてそれから首を傾げた。
そんな奇行を見るような目を向けるな、どう見ても変なことはしてねェだろうが。
「……匂いじゃねェ、指先が色づいているのが珍しかっただけだ」
「あ、やっぱり色残ってます?さすがに薄いと見落としがちになってしまって」
「このくらい問題ねェだろ、自然な色づきで粋だ」
「直球に言われると少し恥ずかしいです」
少し頬を赤くした女が小っ恥ずかしそうに目を逸らす。
お前そんな顔もできるんだな……いつも澄ました顔だから新鮮だ。
「そういや、香木ってのはワノ国でも採取できるのか?」
「さあ……?できるとは思いますが、どれが香木の原木かわからないらしいですよ」
女によると、長い年月をかけて樹脂が固まったものが香木になるらしい。
香木でも香りが出るのに百年以上かかるとか、年月をかけてできたもの程高価だとか。
そんな香木を女がどうして手に入れられたのかなんて、聞くだけ愚問だろう。
むしろこの女はこの国にいるどの人間よりも欲しいものは手に入れやすいのだから。
「すごく大昔のワノ国では海辺に香木が流れ着いた、なんて話もありますがそれは多分別のものと勘違いしたのでしょうね」
「勘違い?」
「だって、香木は重いんです。水になんて簡単に沈むくらい」
いつも思うが博識だな。
海辺に流れ着くはずのない、けれど香木のように匂いがするものか。
女ならそれが何かもう答えは知っていそうなものだが……
「……知ってるな、それが何か」
「ええ、知っております。でもキング様は海賊でいらっしゃるのですから、探してみてもいいのでは?」
今日は思ったよりもコロコロと表情が変わる。
それはアレか、おれに探して持って来いって言ってんのか。
実物は見たことありません、どんな香りがするのかも実物を見たことがないのでわかりませんので。
なんて含みのある顔に絶対嘘だろと言いたくなるな。
「わかった。普段はこっちが呼んでんだ、褒美くらいねェとな」
「手のひら程の大きさにしてくださいね、大きいと持って帰れませんので」
「……見たことあるだろ、持ってるだろ」
「さあ?」
どうだったでしょうか。
たまにこいつが世間知らずだなんて言い始めたやつに物申したくなるな。
それでも少しは楽しそうに表情を変える姿を見て、満足するおれもおれなのだろう。
してやったとでも言いたげな顔が可愛らしいなと思いながら、マスクの下で少し口角を上げた。