アブソルは夜の海が嫌い

波打ち際を名前が歩く。
履いていたランニングシューズとソックスを濡れないであろう、砂浜の上に雑に置き、幼さの残る表情で遊ぶように進んでいく。
先ほどミナモシティに帰ってきたばかりだが、今まで旅をしていた俺以外のメンバーを実家に置き、俺を連れて夜の海辺に来ていた。
ホウエンでのあの事件以来泳げなくなったばかりか足のつかない深さが怖くなった名前のことだ、あまり遠くまで行かないとは思うが念の為声をかける。
人間がわかる言葉で通じるわけではないけれど、名前は汲み取ってくれるだろう。
大丈夫だよ、なんて呑気な声が返ってきた。
そこで止まるどころか膝が浸かる深さまで足を進める。
暗い足下、穏やかとは言い切れない波。
そこに足はついているはずなのに、引きずり込まれてしまうんじゃないかと錯覚してしまう。
思わず舌打ちをひとつ溢し、駆け足で名前のところまで向かった。
何かに誘われているわけでもあるまいし、どんどん深みへ向かおうとする姿勢は見逃せない。

「大丈夫だよルル、深い場所へは行かないよ」

『ついこの前イッシュで何があったか忘れたとは言わせないぞ』

「……あ、この前のこと?ここはホウエンだからあの子たちはいないって」

『いいから、もう少し引き返せ』

俺の言葉を全部理解してるわけでもないのに会話が成立しているのは付き合いの長さがあるからだろうか。
そんなことよりさっさと言うことを聞いてくれ。
年頃の娘のスカートを咥えるのはオスとしてどうかと思ったが、多少の躊躇の後ワンピースの裾を咥えて砂浜の方向へ戻るように引いた。
名前は困ったように笑うと俺の動きに文句など言わず、足首が浸かる波打ち際まで戻る。

「ごめんね、なんだかんだここの海好きだから」

『……知ってるよ』

気が変わってまた深みへ行かないとも限らない。
そのまま身を寄せれば名前はどこか嬉しそうに表情を緩めた。
……海は俺も好きだ。
生まれた時からいつも潮風を感じて、さざなみの音を聴いていた。
でも、夜はダメだ。
夜は、夜を住処にするあいつらがいる。
このホウエンにはいないかもしれないが、あのイッシュにはいた。
無害そうな顔をして、非力そうな腕で足を掴んで、どこまでもどこまでも深く真っ暗な海の底まで引きずり込もうとする。
タイプの相性や俺が早く気づいたのもあって事なきを得たが、助けた直後の名前は酷く怯えていた。
なのに忘れたかのように夜の海ではしゃぐ。
心配するこちらの身にもなってくれ。
ランニングシューズとソックスを拾った名前に安堵の溜め息をひとつ。

「ルル、帰ろ」

そうだな、帰ろう。
濡れた素足のまま歩こうとする名前に寄り添い、俺たちは実家への帰路についた。

2023年7月25日