「爪を出せ」
「……は?」
右手に爪切りを持ってカチカチと動かしながら左手をこちらに差し出す名前に眉を顰める。
名前の表情は険しかった。
思わず怯むが、思い当たることがない。
ふと、自分の爪を見る。
いつもの癖で首や顔を掻き毟ってほんのり赤くなった爪、個性で手を使うからか少し罅割れた爪。
それから、掻き毟ってヒリヒリする首。
「見てらんない。そんなに掻き毟ったら酷くなる」
「別にいいだろ」
「よくない」
「お前には関係ない」
別に俺が何をしてもこいつには関係ない。
その名前の言葉を無視して視線を外す。
ぴた、と。
カチカチ鳴らしていた爪切りの音が止んだ。
諦めたかな、なんて思っていると体を衝撃が襲った。
浮遊感。
逆さまに映る室内、逆さまに映る驚いた顔の連合のやつら。
それから肩幅以上に開かれた名前のブーツ。
手首を何かに掴まれていて、あ、このクソ女、俺を投げやがった。
そのまま宙で身を捩ろうとしたが、その前に名前が体勢を変える。
まるでいつかのテレビで見かけたやつに似てた。
名前の両手が俺の手首を掴み、腕を太腿で挟んで両方の膝裏が俺の首と胸を引っかける。
やばい。
そう思った頃には固い床に背中を打ち付け、同時に思いっ切り名前に腕を引っ張られた。
「いってえええええ!!」
「うわ……俺初めて綺麗にあれが決まるの見た……」
「わあ……名前ちゃん凄いです……」
「腕ひしぎ十字固め」
「えぐい」
肩がギシギシと嫌な音を上げる。
動かそうにも名前は個性を使っているのかびくともしない。
嘘だろこいつこんなに力強くなんのかよ。
反対の手で親指を折り込んだまま肉付きのいい膝を叩くもこれまたびくともしない。
あああああああ肩が外れるふざけんなよ!!
引っ張られている方も、万が一名前に触れたら一大事なのでなるべく親指を曲げておく……が、痛くてそれどころじゃないのが現実だ。
それなのにぱちぱち、と指先で妙な感覚がする。
……おいそれこそ嘘だろ。
こいつ、俺の爪切りするためだけにこんな技かけんのか!?
「お前どけ!痛いんだよ!!」
「はいはい終わったらね」
「このクソ女!馬鹿力!!ゴリラ!!」
「はいはい弔くんいい子にね~」
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!」
ゴリラと叫んだ瞬間、掴まれている手首がミシッと音を立て、さらに腕を引っ張られる。
これがヒーローを一度は志していた元雄英生の底力かよ、いやそうじゃなくてもこんなのできる女なんて認めるか。
床を叩いて見てるやつらに視線を向けても逸らされた、ちくしょう。
思わず名前の顔を見たが、至って普通のいつも通りの気に食わない仏頂面で、手首を掴んで引っ張る力はクソ痛えのに爪切りを持っている手はやけに優しく感じる。
大人しくされるがままでいると、気がついたら親指から小指までの爪が綺麗に整えられた。
掻き毟ってもあまり皮膚を抉らないように、爪の先の白い部分はかなり短くされている。
最後の仕上げとばかりに爪切りについている鑢で小指の爪を削られ、それから腕と体が解放された。
……肩外れるかと思った。
それから冒頭に戻ったように、今度は反対の手を出せと言われる。
「出さなかったらまた同じやり方でやるけど」
「……」
冗談じゃない。
お互いボロボロのソファーに座って、俺は名前に反対の手を差し出した。
ぱちぱち。
罅割れた爪が短く揃えられ、鑢で整えられていく。
「……なんでやるんだよ」
「首も顔も酷くなると思って」
「……」
「それ、アレルギーだとは思うけどストレスでも掻き毟っている。掻き毟るのは構わないけどせめて短くなった爪でやって」
それなら傷も少しは小さくなるでしょ。
掻くなとは言わない。
残りの爪も全部整えられて、それから玖音は少し満足そうに表情を緩めた。
「嫌がる猫の爪を切る感覚ってこうかもしんない」
「誰がいつ猫になったんだよ」
「じゃあちゃんと定期的に爪切んなよ。私だって目に余らなきゃこんな面倒な技かけながらやらないっつの」
切った爪を処理して名前はソファーから立ち上がる。
思わずその腕を掴めば、少し驚いたように目を丸くした。
こんな時なんて言えばよかったか。
どうしたの、と怪訝そうな顔をしている名前に向けて口を開く。
「……ありがとう」
普段言うことのない言葉を、自分でも聞き取れないくらいの声量で絞り出せば、また目を丸くした名前が表情を柔らかくした。
そう、あの、初めて会う前に、写真や映像でしか見なかった、こいつが雄英生だった頃の表情に近い。
「また見てらんなくなったら無理矢理やるからね」
手を酷使する個性なら手も大切にしなよ。
俺に向けたことのなかった顔で、少し笑った。