彼から離れる自由はないけど他はある程度許されるし、こうして普通に過ごしていたら来ることのなかったところへ来ないだろうなって明後日の方向で考えている自分がいる、とても複雑。
なんなら移動手段で横抱きにされるのも複雑、裸で、バスタオル一枚に巻かれているだけで。
慣れるわけないだろ、いくら自力で歩けないからってこれはない、マジで、ないから。
そして私にこの状況を黄色い声を上げて喜ぶ図太い神経はない、頭おかしいんじゃないのか。
いいです這って移動します膝歩きはできるからそれでいいです。
まあ……そんなことがあったのは五分くらい前だったかな。
今はおとなしく景色を眺めている、温泉で、混浴で、この人の隣で。
ほんっと自分でも何言ってんのかわっかんないわ。
でもこの人と私しかいないからまだいいか……随分前はテレビで見たことがある政治家と知らない綺麗な女の人がいた。
どう見てもこの人に擦り寄っているし、下手すればスキャンダルで真っ逆さまな人生になりそうだけどいいんだろうか……私はもう既に上には上がれなさそうなのでいいや。
のぼせないようにするのも兼ね、身を岩に乗り出す。
もう陽も暮れている、すっかり夜だ。
都内よりも星は見えるし、月も輝きが強いように感じる。
「何か物珍しいものでも見えたか」
食い入るように見ていたからか、そう声をかけられた。
特別珍しいものはないけれど、この人に何を言えばいいのかわからなくてつい口籠る。
いつもそうだ。
最初から、何もかもから引き離されて、逃げられないように足首の腱を断たれて、否定も拒絶も受け入れるどころか聞きもしてくれないからこの人にされるがままではあるけれど、上手く言葉が出てこない。
今まで生きてきて自分の気持ちを誰かに伝えるのは苦手だから余計に。
それを知っているのかいないのかはわからない。
少し、本当に少しだけ眉を下げたその人は私の腰に腕を回すと思ったよりも優しく私の体を引き寄せた。
「酒はあまり好きじゃなかったな……私に付き合って飲んでくれるか」
「……少し、なら」
差し出された器をそっと両手で受け取る。
これ絶対高いやつ……お酒も辛口だろうか……
ゆっくり口をつければ身構えていたよりも口当たりが柔らかく、思っていたより飲みやすいことに気づいた。
お酒ではあるので体内に取り込むと少し熱くなるけど、このくらいの辛さの日本酒なら少し飲めるかも。
ちょっとずつではあるけれど、お酒を飲み干した私に気をよくしたのか猫の機嫌を取るかのように指の背で私の顎の下を擽る。
そういうのはあまり……はっきりと言えない自分がもどかしい。
ごちそうさまでした、と器を返せば彼はそれを浮かべていた桶に置いた。
思ったよりも美味しかった、ちょっとびっくり。
ただ熱いです、のぼせそう。
露天風呂だからって特別涼しいわけじゃない、なんならお風呂は熱め。
……寄りかかったらそろそろ限界ですってアピールできるかな。
なんだかんだそれなりに長風呂していると思うんだけど。
お酒入ると余計に熱くなるよね。
少しだけ、本当に少しだけ寄りかかってみる。
器を持つ手が止まり、少しだけ驚愕に見開かれた目が私を見下ろした。
……?あれ?そんな顔する?てっきりもっとこう……ね?
それからしばらく、結局温泉に浸かっていた。
なんとかのぼせずに堪えた私、偉い、誰も褒めてくれないからセルフで褒める。
のぼせてないよ、たぶんね。
ご飯も食べて一息ついたらなんかよくわからん間にぺろっと食べられたけど……だってまたお酒すすめられたし……ぼうっとしていたし。
あ、しまった、流されたって気づいたのは翌朝だった。
女からこちらに身を寄せるなどなかった。
あれだけ最初は嫌だと帰してと抵抗はあったが、最近では諦めたのか小さなものになったと思う。
特にわかりやすくなったのは、その足首の腱を断ってからか。
真っ赤に染まった自分の足に茫然と視線を落とし、痛みと恐怖から雫の溜まった目でこちらを見上げる様は記憶に新しい。
ああ、それでも美しいと思ったのだ。
それを手元に置いておきたいと思ったのだ。
穏やかな寝息を立てる女の頬に触れる。
酒に弱いのか、湯に浸かっていた時と夕飯に飲んだだけで酔いが随分回っていたようだ。
でなければ、女から私に身を寄せることはない、触れることはない。
別に構わんのだ、女がどれだけ拒絶しようとこちらから触れる、無体も働く、そこに女の意思は関係ない。
私の手元にこの女がいることに意味がある。
上質な布団に身を預けたままその華奢な体に腕を回した。
抵抗はない。
直に触れる素肌は柔らかく、ある種の心地よさがある。
朝には女は機嫌が悪い可能性があるだろう。
こうして私の手元にいる分、少しは贅沢させてやろうじゃないか。
さて……何が一番機嫌をあやすのにいいか……
暑いのか、女がもぞもぞと身じろぐのを押さえ込み、睡魔がやってくるまで少々思案した。