私に唇を重ねて、海では毒と呼ばれているそれの味を知った彼は、それはそれは美しく笑った。
初対面でキスをされた、という衝撃的な出会いはこの先忘れることはないだろう。
バスケットに軽食と飲み物を入れ、お土産の花をいくつか瓶に詰めたものを確認する。
押し花も考えたけれど、鮮やかなものがいいって彼も言っていたしね。
こうして瓶に入れておけば、少しは観賞用としてもつはずだ。
家族にじゃあ行ってくるね、と声をかけて家を出た。
通い慣れた道を歩き、目的の場所へと向かう。
軽食でいいから食べてみたいって言っていたけど、大丈夫かな、食生活どころか何もかも違うけれど。
鼻腔を擽る潮の匂いに自然と胸が高鳴るのを感じながら、口角を緩めた。
砂浜に降り、陸から見えにくい岩場へ足を向ける。
満潮までは時間もあるし、そこまで足下も濡れないかな。
きっと、彼が先に上がってきている、出会ってから約束をしているわけではないけれど。
しばらく岩場を進んでいると、陰に隠れるようにその姿が見えた。
「リク」
彼の名前を呼ぶと、振り向いたリクはこちらへ視線を向けて嬉しそうに表情を輝かせた。
おお、相変わらずの美人さんだ、眩しい。
岩場に寝そべっていたリクは体を起こすと、いそいそと岩場に上がる。
そんな彼の隣に腰を下ろし、膝に置いたバスケットからお土産の瓶を取り出した。
「これお土産の花ね、こういう形の花は見たことある?」
「ありがとう名前、かわいい形をしているね」
「ホタルブクロっていうんだよ」
瓶ごと太陽に翳して透かすように観察をしているリクの横顔はどこか幼い。
海に花は咲かないからか、いつも珍しそうに見ているのがかわいらしいんだよね。
リクは、ウルリクは人魚だ。
人魚、なんておとぎ話だと思っていたけれど、リクと交流しているんだから不思議だ。
嬉しそうに渡した瓶をしまったリクは、何かを取り出してそれを私に差し出した。
俺からはこれね、と渡されたのは綺麗な色をしている珊瑚だ。
人間の言う珊瑚礁とは違って、小さな生き物の骨格が硬化したものなんだとか。
それも深海で育つというのだから、とても貴重なものなんじゃないだろうか。
「綺麗な赤だね」
「丸く加工するのもいいと思う。陸ではできるだろ?」
あとこれね、とリクの手が私に伸びた。
湿り気を帯びた手が私の髪に触れ、ちゃり、と金属が擦れるような音が聞こえる。
なにかを耳に引っ掛けてくれたらしい。
「帰ったら見てみて」
「うん」
「とても似合っているよ、名前にぴったり」
俺の色、とリクが満足そうに目を細めた。
……ああ、好きだなあ。
私に笑いかけてくれる、優しく触れてくれる。
沖まで一緒に泳いで連れて行ってくれるし、人がいない夕暮れには綺麗な尾びれを人の足にして、一緒に歩いてくれる。
好きだよって言ってくれる。
ありがとうって返すのが、私には精一杯。
でも、嬉しそうに笑ってくれるの。
暗くなる前にはリクは海底に、私は村の自分の家に帰るけれど、毎日のように会えるから寂しくはなかった。
それがずっと続くと、浮かれていた私は疑わなかったのだ。
嵐の酷い日だった。
海辺に停泊していた船が流されたり、自分の船を見に行った人が帰ってこなかったり、村でも古い家の屋根が崩れたりと近年稀に見る被害に遭った。
幸い、我が家も家族も無事。
でも、村の倒壊した建物や住む場所をなくしてしまった人も多く、教会に身を寄せた知人も多かったので村総出で復興作業に取り掛かる必要がある。
私ももちろん、友人の境遇に心を痛めながら友人を慰めて、村の復興作業の手伝いをしていた。
そんなこんなで時間を作れるはずもなく、リクに会いに行けなくて、やっと会いに行けたのは、嵐から二週間経ってからだった。
「……そう、だよね」
来る、わけがないか。
ほったらかしたわけではないけれど、どうしても会えなかったのだ。
愛想を尽かして来なくなってもおかしくない。
……もしかしたら、あの嵐で、リクの住む海底も荒れてしまっていて、直すのに追われているのかもしれない。
私が来るのが遅くても、早くても、いつも私より先にここにいたのはリクだった。
そう、きっとそう。
自分に言い聞かせるように呟いて、岩場に腰かける。
いつかきっと、会えるはず。
今まで通り、毎日通った。
晴れの日も雨の日も、雪の日も。
時折やってくる嵐の日は、家族に心配されるから来れなかったけど、嵐が弱まった頃には濡れるのも承知の上でいつもの場所へ行ってみた。
一週間、二週間、一か月、三ヶ月、半年……
でも、いなかったんだ。
……きっともう、リクには会えない。
確信したのは、初めてリクに出会ってから一年が経っていた。
会えなくてもいい。
会えるかもしれないから。
あの場所へ通っては、岩場で流れ着いた綺麗な貝を拾い、たまに「今日はこの花が綺麗に咲いていたんだよ」と海へ流す。
村の人からは、あの嵐で想い人を亡くしていたのでは、と噂されもしたけれど、全部を言えるわけではないから黙っていた。
リクとの思い出は私のものだから、ちゃんとしまっておかなくちゃ。
……恋人ではなかった。
リクは好きだよと私に言ってくれたけど、もしかしたら人魚の挨拶みたいなものだったかもしれないし、じゃなきゃ初対面で好きって言いながらキスなんてしないと思う。
私は、リクが好き。
だった、なんて過去形にはしない。
ずっと好きだ。
美しくて、綺麗で、でもかわいいところもあって。
そんなリクが好きだ、今までもこれからも。
いいよね、ずっと想うくらい、ゆるされるよね。
今日も私は思い出と共に貝がらを拾い、花に想いを託して海へ流すのだ。
♢ ♢ ♢
かわいい人だと思った。
あ、好きだな、って思った。
俺を見て、驚きはしていたけれど、それもそうか。
ほんのりピンクに色づいていた唇がおいしそうだったから、ついキスをしたんだもの。
そりゃあびっくりする。
けれど、それで俺たちの関係は終わらなかった。
家族の目を潜り抜けて、自然と俺は彼女と出会った場所へ向かう。
彼女も自然とそこへやってきていて、運命ってこういうことかなって思ったんだ。
たくさん話をした。
俺のこと、名前のこと、海のこと、陸のこと。
お土産にって、濡れないように花を瓶に入れて渡してくれた。
それを持ち帰って、浮かばないように自室の棚にしっかりと飾る。
俺もなにかお礼したい、お土産になるもの。
いつの間にか、俺は名前に海のものを、名前は俺に陸のものを渡すようになっていた。
「名前は泳げる?」
「……リクと同じようには無理だよ」
「わかってるよ」
意地悪で言ったわけではないけれど、少しむくれたように唇を尖らせる姿がかわいい。
一緒に行ってみる?と彼女の手を取った時の、彼女のキラキラした表情といったら。
少しだけ沖に出た日、名前の柔らかい体を抱きしめて、太陽に輝く髪に頬を寄せて。
ああ、好きだな、と自覚をしたのだ。
あのまま連れて行けばよかったと、後悔したのもすぐだった。
嵐の酷い日だった。
潮の流れも乱れているのか、普段は流れつかないものが流れ着いて来たり、流れに負けてしまった人魚もいた。
警備隊が手分けをして探し、俺たち王族が指示を出していく。
まだ父が存命だったから、俺がその場へ確認しに行くこともあった。
海上でも酷かったのか、空っぽの船が沈んできた時は全員の肝が冷えただろう。
嵐が過ぎてからも対応に追われ、名前と逢瀬を重ねていたあの場所へ行く時間もなかったのだ。
そうれだけじゃない。
名前が無事なのかも確かめたくて、家族の目を盗んで向かおうと思った時、父に呼び止められた。
「リク、もうやめなさい」
「え……」
「……我々と人間では、なにもかもが違う。本当に彼女を想うのであれば、会わない方がいい」
魔女の呪いのこともある。
決して、咎めるような言い方ではなかった。
心から俺を心配するような、そんな言い方だった。
もちろん、次期王であるから身の振り方も考えなくてはならない。
もう永くはない父を安心させるためにも、俺は素直に頷いた。
思えば、永くないのは名前もだと気づいたのはもっと後で。
彼女と過ごすことが当たり前になっていた頃だったから、人魚と人間の寿命の差に、俺は気づけなかった。
次に陸へ顔を出せたのは、ずいぶんと時間が過ぎてからだ。
久しぶりの風、じりじりと照り付ける太陽、ほんのりと香る土の匂い。
……なんか、景色が変わったような気がする。
それもそうか、あれからどのくらい時が過ぎたのだろうか。
もうすぐ俺は父の跡を継ぐ、その前に、彼女に会えたら、あわよくば、連れてこられたら。
人の目を気にしながら、いつかのように名前を待つ。
太陽が真上に昇り、段々と傾いていった。
水平線に沈んでいく太陽が橙色に輝くのを見て、諦めよう、と腰を上げる。
その時、岩場の陰に漂っていた瓶に気づいた。
「……紙?」
思わず手に取り、中身を透かして見る。
入っているのは羊皮紙と、花?
岩場に腰を下ろし、その中身を取り出すべく栓に手をかけた。
コルクのそれは海水に晒されていたからか、少し脆い。
壊さないようにそれを抜いて、羊皮紙が濡れないように取り出して広げた。
見知った名前。
文字を教わってよかったと、これほど思う日はないだろう。
名前の、俺に宛てた手紙だ。
『私が死んだらこれを海に流してもらうように、家族にお願いしました。どうかリクに届きますように』
そんな書き出しに心臓がぎゅっと締め付けられる。
名前が、死んだら。
つまり、彼女は、もう……
後悔の念とはこうやって襲ってくるのか。
逃げ方なんてわからない、逃げたいと思う。
でも、彼女が俺に宛てた最後の言葉だ。
乱れる息をゆっくり整えて、その手紙の続きに目を通した。
書いてあったのは、俺と会えなくなった名前がどう過ごしてきたのか、彼女の人生だ。
毎日ここに来ていた、貝がらを拾って、花を海に流して。
結婚の話もあったけれど、しなかった。
想っているのはひとりだけ。
今までもこれからも。
二度と会えなくても。
『リクのこと、ずっと好きだよ』
「……俺も、ずっと好きだよ」
ああ、好きだから、愛しているから、彼女を陸から攫ってきてしまえばよかった。
彼女にフィアネを、と思ったけれど思い留まる。
俺はもうすぐ父から王の座を引き継ぐ、そんなところで無責任なことはできない。
きっと、これが彼女を攫っていけなかったところなんだろうな。
瓶の中に残っているものを取り出すと、それは押し花と呼ばれるものだった。
いつか、俺にお土産と渡してくれたものと同じだ。
ずっと名前が好きだ。
もう伝わらないかもしれないけれど、ずっとずっと、君のことしか愛さない。
ユラが泡になって消えないように、呪いを解くために、ユウとコウと俺でそれぞれへ捧げるフィアネを口にした。
自分の指先が、鰭が、輪郭が、だんだんと泡になってぼやけるのがわかる。
ふと、彼女のことを思い浮かべた。
人間は死んでも泡になれない。
陸で死んだら土に還る。
泡になったら、って思わなかったわけじゃない。
でも、そうか。
「君は陸で土に、俺は海で泡に……か」
最期を迎えても、君に会うことはできないのか。
人魚のまま、人間のまま、恋をしたら、愛したら、最期を迎えても会うことはできないのか。
話したいこと、たくさんあったんだけどな。
会いたかった。
ずっと、君に。
肉体が違う場所で還るのなら、魂だけでも会いに行けるかな。
会ったら君になんて言おう。
ああ、いや、決まっているか。
「ずっと好きだよ」
