相変わらず名前の知らない男が俺結婚したっていうからおめでとうって言ったらキレられた

「……無防備なツラだな」

ベッドの上で頬杖をついて女を見下ろす。
俺はベッド、女は布団。
多分、女なりの気遣いだ。
そっと手を伸ばして女の顔に触れれば、擽ったかったのか俺に背を向けるように丸くなった。
思ったよりも無防備なツラで眠っていることにどうしてか満足する。
パシフィック・ブイでも自分の領域に踏み込ませなかったやつだから、こうして俺が女の縄張りにいても女が力を抜いて過ごしているのだと思えば、悪くない。
最初から女は布団で寝てはいた、が、寝相なのかなんなのか、居間まで転がっていることは多々あった。
女なりの無意識な距離の取り方だったんだろうな、その度に布団に戻してはいたが。
女が自分の名義で俺にと買ったスマートフォンを見れば、もう日の出の時間だ。
カーテンの隙間から射し込む光に女が眩しそうに体を丸めるのを見てしっかりとカーテンを閉める。
たまには、俺が朝飯の支度するか。
女を起こさないようにベッドから抜け出し、襖を開けて居間まで赴いた。
居間のカーテンを開き、薄く窓を開く。
女は起きてきたら目覚めの一服とか言って煙草吸うだろうな、ここへ来た当初はあまり煙草臭くはなかった、今では無香の消臭剤で誤魔化してはいるが少々煙草臭い。
煙草臭い女はモテねえぞ、と思ったが他に男に言い寄られても嫌だな、とすぐ思い直した。

「ちっせー別荘だとは思っちゃいるが、設備はしっかりしてんだよな」

平屋で、部屋は居間と寝室ひとつずつ。
女の父親と姉と妹がよく訪れるらしいが、どう考えてもこの大きさはふたりが限界だろ。
女に聞けば、姉と妹は近くのホテルに泊まるよ、と煙草を咥えていた。
母親は女が幼い頃に死んでいるらしい。
姉と妹にはそれぞれ家庭があるし、父親も実家で問題なく暮らしている。
まあ、女が住むようになってからは一度も訪れたことはない、正直来たら困る、勘繰られそうな予感がするから。
台所で棚に入っているものを見比べ、パンとかでいいかと思いながら冷蔵庫を開いた。
本当にあいつ意外と家庭的だよな……煮物の作り置きやら漬物だっけ?それもあるし。
ヤンキー上がりで見た目大和撫子で中身狂犬みてーに狂暴で実は家庭的?属性いくつ持ってんだひとつにしろ。
トーストと、スクランブルエッグと、なにかサラダみてーなのあればいいか。
トーストに塗れるジャムやクリームもあるしな。
ゴソゴソとしばらく準備をし、スクランブルエッグも火が通っていい加減になったところで寝室から布擦れの音がした。

「やっべ……寝過ごした……?」

「おー、おはよう。俺が起きただけで出勤までは時間あんだろ」

おはよ、と返した女は寝ぼけ眼を擦ってローテーブルの上にあった煙草を手にして縁側へ。
少し髪に寝癖がついている。
まっすぐな黒髪からぴょんと髪が跳ねており、まるで触覚みてえだ。
時折頭をふらふらと揺らしながらも紫煙は上がっていた。
灰どころか煙草落とすんじゃねえの。

「飯、できた」

「ありがとー」

眠そうなツラ、気の抜けたそれにちょっとだけ優越感。
煙草を灰皿に押し付けて、ローテーブルの前に腰を下ろす女が俺の持っていった皿に手を伸ばしたので渡す。
トースト久しぶりだなぁ、なんてのんびり言いながら手を合わせていただきますを口にした。

「今日も海か?」

「うん、でも天気よくても荒れてそうだから午後は休みになるかも」

「サーバーの回収は?」

「本体は半分くらい回収したけど中身が使えるかの解析はまだまだ」

「へー、大変だな」

他人事で悪ィけど。
そんな俺に気づいているのかいないのか、女はトーストを齧りながら扱き使いやがってあいつら、と職員に対しての愚痴を漏らす。
適当につけた朝のテレビ番組を眺めながら食事を終え、女はご馳走様と口にすると立ち上がって皿を台所に持っていった。
それからテキパキと支度を始め、寝癖もろともシニヨンに髪を纏めてナチュラルなメイクを施せばいつもの女だ。
ほらよといつもの出勤用の鞄を渡しながら、俺結婚したんだわーと起ききってない頭が言っていたけど。
だってそうだろ、もうこれ新婚だろ、俺がハニーで女がダーリン、ハニーがダーリン送り出すやつ。

「俺結婚した……」

「えっ、そうなの?おめでとう」

……普通そこはよォ……!
外に停めてある車のキーを片手にパンプスを履く女に思わずふつふつと怒りが沸き上がる。
どう考えても!俺が結婚すんならてめーだばぁーか!!
新婚なら行ってらっしゃいのキスのひとつでもするんだろうが、この、変なところで鈍感の馬鹿が!と女の横っ面に平手打ちをした俺は悪くない。

 

「解せぬ」

「えっ、君なんで頬っぺに紅葉咲いてるの?」

「あれですよ、きっと噂の嫁の地雷踏んでビンタされたんですよ」

「あーわかる、無愛想な旦那に愛想尽きるってやつ?」

「俺じゃん……」

「泣くなよ……」

「なんであんたらがそう落ち込むのかも解せぬ」

仕事用のウェットスーツに着替え、エアタンクの残量を確認し、レギュレーターの動作確認をする。
あの野郎、自分の力の強さわかってんのか、平手打ちってなんだ、癇癪起こした新妻か。
つーかそもそもそんな関係じゃないでしょうが。
……じゃあなんだろう、私たちの関係性って。
ただの元同僚の現同居人じゃないの?
うーん、前に好きって言われたけどあの男酔ってたから信憑性がなあ……
水中ゴーグルをつけ、私を含め全員が準備できたのを確認して海へ潜る。
随分慣れた。
ライト片手に内部構造を一番わかっている私が先導して海水に満ちているパシフィック・ブイだった建物へ入る。
潮の流れが強いからか、中のものが海中へ出て行ってしまっているけど確かにここに人が住んでいたんだなと、少しだけ心が痛んだ。
誰も死ななかったのが不幸中の幸いか、レオンハルトを除いてだけど。
今日も今日とてサーバーの回収とその解析。
何度も入ったことのあるサーバールームで取り外せるだけのサーバーを他の職員に手渡していき、また次のサーバーへ取り掛かる、その繰り返し。
いくら電源は落としてあるとはいえ、一歩間違えれば感電間違いなしな気がする。
エアタンクの残量を確認し、他の職員が手首を差して時間だと伝えてきた。
そろそろか。
サーバールームから出て、今度は他の職員が先導して海面へ上がっていく。
と、その時だ。
私の目の前に一本の口紅が漂っていた。
普段なら気にしないんだろうけど、何故か気になってそれを手にする。
ブランド物の口紅だ、色は……だめだ、品番の書いてあるシールはとっくに剥がれてしまっていた。
それをなくさないように腰につけていたポーチにしまい込む。
早くしろとライトをチカチカ点滅させて急かした職員に同じようにライトを点滅させて応え、ゆっくりと海面へ浮上した。

「何持ってんだ?」

「口紅、なんか見覚えあって」

「ここで働いていたもんな、仲良い誰かのやつ?」

まだ無事に浮いている建物の上でタオルを肩にかけながらその口紅を開けてみる。
綺麗な色だ、誰かつけていたような……

「あ、それうちの嫁さんの持ってるやつと同じかも。なんちゃらグレースって名前の色だったかも」

「……グレース」

まさか、ね。
どうする?こっちで預かるか?と同僚に言われたけれどこれは持っておきたくなったので、本人に聞いてみるよと自分の鞄にそれを入れた。
それからは潮の流れが急になり、昼まではサーバーが使えるかの確認作業。
この量を急ピッチで解析して、問題ないサーバーは新しいパシフィック・ブイへ届けるためにICPOの職員に渡す。
あとは向こうで直美やエドがなんとかしてくれるだろう。
まだ同じところでは働けないけどいつも頼りにしているわ、と直美から連絡がある度に本当に私はパシフィック・ブイに行くことができるのかと疑問に思った。
私なんて替えのきくスタッフだ、問題児と言われていた、自分でもそうだと思うよ。
何年先になるかわからないけれど、それでも必要としてくれれば……私はそっちに行くのだろうか。
……あの男を、残して?
それこそ想像できない。
なんてーの?本当に当たり前になりつつあるから、全く想像できないんだ。
うーん……こっちのパシフィック・ブイの撤去作業の方が時間かかりそうだしな。

「そういえばお前どうすんだ?」

「何が?」

「嫁に平手打ちされたんだろ、ご機嫌取りは?」

ご機嫌取りて……嫁じゃねえし……
ふと、その家庭持ちの職員に奥さんのご機嫌取りをどうしているのか聞いてみた。

「マジでご機嫌取りしたことないんで参考までに」

「俺は嫁の好きなモン買ってるなあ、スイーツ系」

「自分のところはひたすら甘やかしてますね、うちの奥さんご機嫌悪い時は甘えたい時なんで」

「あ、私は旦那に欲しかったデパコス買ってもらったよ!新作で人気だったからなかなか手に入らなくてね」

……あの男にどれも通用するかわかんねーな。
でもデパコスねえ……グレースだった頃や今も考えると美意識は高い。
けれど私がそこんところ疎すぎる。

「出かけるのは?君、水上バイクで休みの日はそこら辺走ってるでしょ?乗せてあげなよ」

「……参考にする」

さて、どれがあの男にはいいだろうか。
女性職員からは、あなたはおっぱいのついたイケメンだから何やっても嫁は機嫌治すわよ!とよくわからん励ましをされた。
何それ、流行ってんの?

 

平手打ちはやり過ぎたような気がする。
週末納期の仕事に取りかかる気も起こらなくて、この別荘のプライベートビーチの波打ち際でぼんやりと海を見ていた。
あのきょとんと目を丸くした顔はちょっとウケたけど。
わかってねーなあの女!
男心どころか女心もわかんねーんじゃねーの?
鈍感の一言じゃ片付かねえ。
女のところから頂戴した煙草を咥えて火をつける。
イライラに任せて大きく息を吸ったが噎せた。
あーちくしょう!!
なんであの女はこんなの大きく吸えんだよ!!
げほげほと咳き込みつつ、涙目になるのを感じながら今度はゆっくり煙を吸う。
グレースを演じている時は、成人したと同時に潜入だったから酒も煙草もほとんどしなかった。
あんな可愛い真面目なグレースから煙草の匂いなんてしねーだろうし、酒も飲む機会なんてなかったからな。
でもあの女はパシフィック・ブイに来た頃から煙草吸ってたから、ヤンキー上がりってこともあって未成年から吸ってたんじゃねえかなと思う。
日本人特有の童顔だけど、煙草を咥えている姿はすげー大人っぽかった。
黙ってりゃいい女なのに口を開きゃあれだから、日本人に夢見てた男たちが残念そうにしていたか。
でも女からはやけに人気で、きっとこいつは女からモテるタイプなんだろうなと思ったのも確かだ。
デスクに足をかけて自分の悪口を言ったやつらに中指を立てる姿とか、自分よりも年上で大柄な男相手でも果敢に口汚く罵りあう姿とか。
表情変わらねえのにたまに穏やかになっていたりとか、笑った顔がめちゃくちゃ悪人面だったりとか。
無防備な寝顔とか、思ったよりも優しい手だとか。
……それから、星のない夜空のような黒い髪や、ブラックホールのような黒い瞳。
惚れた方の負けっつーけどよォ……
はあ、と大きく息を煙と共に吐くと、別荘の前の駐車場から車を停める音がした。
思わず振り向けば、鞄を肩にかけている女がこっちを見ていて、ぱちりと目が合う。
海が荒れているから午後休になるっつってたっけ。
女は家に入らず、そのままプライベートビーチまで下りてきた。

「ただいま」

「……」

「これから海もっと荒れるからそこにいたら濡れるよ」

朝、俺が平手打ちしたところはまだ少しほんのりと赤い。
何も返さずにいると女は俺の隣に腰を下ろし、それから俺が咥えている煙草を手に取ってそのまま咥える。
いや、ほんとこいつ、なんでそんなに恥じらいなく間接キスすんの?流行ってんの?
自分のはちゃんと出して吸えよ、と思ったのが伝わったのかお前がパクったからなかったんだよと女は口にした。
ちゃんとナチュラルメイクしてったのに海に潜ったからかメイクはほとんど落ちていて、眉も少し薄くなっている。
女ならさァ、もうちょい自分のことに気ィかけろよな。
鞄の中から携帯灰皿を出して慣れたようにそこへ灰を落とした。
俺が口紅を塗っていたからフィルターにはその色が移っていて、そのまま咥えるから少しだけ女の唇が色づいたような気がする。

「ああ、そうだ。これ、あんたの?」

思い出したように女は鞄の中から何かを取り出して、手のひらを開いてそれを俺に見せた。
見覚えがある。
というかそれ、パシフィック・ブイで俺が使ってたやつ。

「それ……」

「今日の作業の時に海で拾った。品番わかんなかったけど、色がグレースの唇に塗ってあったような気がしたから持って帰ってきた」

同僚に聞いたけど、これグレースって名前の口紅なんだってね。
そう言った女の手からその口紅を手にした。
短くなった煙草を咥えながら俺を見て、似合ってたよ、と女が穏やかな表情を浮かべる。
……そういうところだよ!!
女から似合ってたって言われて喜ばねえわけがねえだろ!
まあ、あれから随分日も経っているし、なんなら封をしたままとはいえ海水に浸かっていたものをそのまま使う気にはならないけど。

「今度出かける?」

「どこに」

「たまには島から出る?あんたに似合いそうな口紅買いに」

「……誰の入れ知恵だよ」

お前がいきなりそう言うわけねーだろ。
バレた、と女は悪びれるでもなく肩を竦めると煙を吐き、ご機嫌取りだよと言った。
素直か。

「お前だってこの前埋め合わせになってねえって言っただろ、私の地元は神奈川だから都内程賑やかじゃなくても気分転換になるでしょ」

そういえばこいつ神奈川が地元だったな。
神奈川を東西に分ける川の近く、かつ海の近くだと身元を調べた時に知ったはず。

「……顔出して歩けねえよ」

「帽子なり眼鏡なりなんなりすれば?グレースの時みたいに女装でもいいし」

「お前と歩くのに女装なんてできねえだろうが!」

「なんで?」

「なんでって……!」

ほんっっっと察しが悪ィな!!
ああもうこいつに遠回しに言ったのが悪かった!はいはい俺のせい!!
煙草を咥えたまま頬杖をつく女に口を開く。

「女の隣を女装して歩きてえわけじゃねえ!男として歩きてえに決まってんだろ!!わかれ鈍感女!!」

「へー……思ってたんだけど、私のこと好きなの?」

本当に直球じゃなきゃわかんねえのかこいつは!!
かあっと顔が赤くなるのを気づかないフリをして、自然と震える唇に力を入れて。

「好きじゃなきゃここまで遠回しに言わねーよ!!」

朝のようにきょとんと目を丸くする女。
ンなびっくりしましたって顔で言うな、つーか絶対それに関しては察していただろ!
意地が悪い、絶対こいつ意地が悪い。
にまにますんな、せめてにこにこしろ!

「じゃあ朝の発言、お前誰と結婚したの?」

「い、言わせんなばぁーか!お前以外に誰がいんだよ!!」

「ふぅん……」

聞いといてそれか!
興味があんのかねえのかわかんねえ返事しやがって!
思わず朝のように手を振り上げれば、女は俺の手首を掴んでそのまま自分の方に引き寄せた。
ムードも何もない、ぶつかるかのように唇が重なる。
相変わらず女の唇はガサガサで、煙草の不味い味がして。
けれど前と違うのは優しそうに目を細めている女の姿。
唇が離れると女は煙草を口にして、俺の手首を離すとその手で俺の唇に触れた。

「じゃあ、私がちゃんと嫁のご機嫌取りしなきゃね」

「っ……!」

こンの……!
おっぱいのついたイケメンがァ!!


元サポートスタッフの女の子
なんで自分がピンガに平手打ちされたのかちょっとよくわかんなかった。
夫婦喧嘩して嫁に平手打ちされた図にしか見えなくて同僚にからかわれた、解せぬ。
あれ、こいつ私のこと好きなのマジなんだ?
確かにグレースは仕事仲間だったけど、唇の色を忘れるほど薄情じゃない。

ピンガ
俺結婚した……って言ったらおめでとうって普通に返されてキレた。
不器用とかじゃなくて女の子に遠回しな言い方が全く通じないだけ、泣かなかっただけ偉い。
恥ずかしがりながら素直に直球に言ったらチューされた、えっ好き……
自他共に認める嫁枠。
男だからお前とはありのままで歩きたいに決まってんだろばぁーか!!わかれ!!
多分、女の子の連休の時に女の子の地元に行くんじゃないかな、コスメ買いに。

2023年8月5日