幼い頃の記憶って、曖昧なところもあればはっきりしているところもある。
一番鮮明に憶えているのは、奇妙な清潔感が不気味な研究施設で、そこで出会った私より十くらい年上の男の子。
閉じ込められている部屋が同じだったのもあって、幼い私は懐いていたと思う。
「にーちゃ」
「……ん」
まだ普通だった幼子の手を伸ばし、抱っこをねだれば抱き上げてくれて、背中の黒い翼と炎が珍しくて綺麗だなぁと子どもながらに感じた。
実験で傷つけてしまった顔が痛くて眠れなくてぐすぐすしていれば一緒のベッドに横になって、ぴこぴこと動く私の大きな耳を撫でたり穏やかな声で彼の故郷の昔話とかしたりしてくれて。
うん、まあ、要するに大好きだったのだ。
ギリギリ能力をコントロールできない能力者に見える私を、同情もあったとはいえ甘やかしてくれた男の子のことが。
「……いつか、一緒に逃げ出そうな」
絞り出すような声に当時理解力の乏しかった私は首を傾げながらも頷いた覚えがある。
でも、いつかも、一緒も、訪れなかった。
置いてかれたのだ、嘘をつかれた、信じてたのに。
「にーちゃ……」
大好きだった兄貴分に、置いてかれた。
「おい、もうすぐワノ国だぞ。いつまで寝てんだ」
「……あー、ごめん」
「まあ晴れてんのは今のうちかもな、カイドウんところはあいつが龍になると雷雲が来るからよォ」
何も知らない人間からすれば命知らずな言葉だといつも思うんだなァ。
甲板で丸めていた体を起こし、伸びをしてから立ち上がる。
なんだか懐かしい夢を見た、あれ何年前よ、軽く二十年経ってんじゃねえの、もうすぐ三十年?
ぽりぽりと古傷のある目元を掻き、それから外套のフードを被った。
私の頭の形にできているから窮屈感は感じないし、聞こえすぎるものが抑えられるからちょうどいい。
さて、私の今いるところは海賊船、なんとあの四皇カイドウの傘下だ。
船長は、なんでもあのカイドウと兄弟分らしく、お互い海賊団を立ち上げた時に盃を交わしたんだとか。
私がここへ参入したのはそれから五年後くらい、暇と力を持て余していた時に誘われて、今ではこの海賊団の幹部ポジションだ。
くあ、と欠伸をしながら船員に指示を出し、入国の準備をする。
なんかねー、このワノ国って入国する時は今から私たちが向かう潜港からゴンドラに引き上げてもらうか、滝登りするしかないんだって。
滝登りするにしても正しい海流を見極めないと岩にぶつかって木っ端微塵、怖い怖い。
想像したら怖くて思わず尻尾を足の間に挟む。
それを見た船長がお前は一緒に来るの初めてだもんなァと笑った。
いつも私は縄張りで留守番だったからね、ちゃんと留守番してたよ、海軍も生意気な他の海賊も沈めたもの。
なんで突然私もワノ国に来ることになったのか船長に聞いたら「カイドウがお前に会ってみたいってよ!」とガハハと笑ってたな。
……ま、珍しいからだろ。
「よう兄弟!久しいな!!」
「ウォロロロロロ!お前もな兄弟!!変わんねえなァ!」
うっわでっけえ怪獣がたくさんいる……船長もでっかいから……余計に……
そう思った私は悪くない、だって事実なんだもの。
いやね、私も身長高い方ですよ、なんとか三メートルありますよ。
足で盛ってるんだけど。
ちょっと人間と比べると私の足は、まるでイヌ科の後ろ足のようになっている。
しかも大きめ、ちょっと困る、靴履けねえ。
まあそのまま直に地面踏んでも痛くないんだけどね、むしろ真っ平らなところを歩いた方が肉球が痛い。
船長と四皇カイドウの圧にビビる私の尻尾は素直でずっと足の間に丸まったままだ。
心做しか耳もべしょっと平らになって……なってたわ、完全にビビってんのわかるなこりゃ。
キュンキュンビビった鳴き声出さないだけマシ。
表情は平然としてますとも、でもほら、動物って素直じゃん。
「ああそうだ、カイドウ。お前がうちの娘に会ってみてえっつってたから連れて来たぞ……って、おま、ビビりすぎだろ!そんな怖くねえよカイドウは!!」
「あァん?兄弟、お前の娘何かの能力者かァ?」
「あー……建前はな。ほら、ここにいるやつらはカイドウが信頼するやつらだからフード取っても平気だぞ!可愛い顔見せてやんな!」
船長が私の被っていたフードを引っ張り、それからわしゃわしゃと髪と耳を乱暴に撫でた。
乱暴過ぎるとか、娘って言ってもとっくに三十過ぎてるとか、言いたいことはいろいろあるんだけども。
フードを被る理由としては、大きな耳を直に出したくないってのと、顔に大きな傷があるってのと、夜なんかは特に月を視界にいれたくないってところ。
外套だから多少は尻尾も足も覆って隠す役割をしているし、人の手からかけ離れた右手も外套でシルエットがわからない。
要は人とは違うのだ、私の外見は。
そんな私の姿を見下ろすとカイドウ……さん、は上機嫌に笑い、大きな手で私の頭を撫でくり回す。
「別嬪じゃねえか!イヌイヌの能力者か?」
「カイドウ、こいつハーフなんだよ」
「ハーフだと?」
「おう、狼のミンク族と人間のな。おれが拾う前にゃ月の獅子の実験台にされたこともあったらしくて、その後遺症で顔は傷ついて手と足がそうなっちまったんだってよ」
ん、まあ、そう。
私はミンク族と人間のハーフだ、というのは幼い頃に政府の人間っぽいやつらが言ってたのを覚えているだけだけど。
うーん、多分父親は黒い毛並みの狼のミンク族で、母親は普通の人間なんだろうな、覚えてないけど。
カイドウさんが手を退かせば今度は船長が私の頭を撫でた。
顔傷つけたのは自分だけどさ、月さえ見なけりゃ月の獅子にならないかと思って鋭い自分の爪で思い切り引っ掻いたんだっけか。
ふと、視線を感じて目を向ける。
こちらを見下ろす視線は三対。
でっか……三人ともでっか……あれ、私の三メートルってちっちゃい……?
名前だけは知ってる、多分キングとクイーンとジャック。
「お前んとこで幹部になるくらいだ、つえーんだろ?」
「おうよ。自慢の娘っ子だからな!」
「まあ久々に兄弟が来たんだ、今夜は宴だなァ!!」
マジですか、宴なんですか、苦手なんだが。
船長酒癖悪ィのに。
お前は無理に輪に加わんなくていーからよ!なんて船長の言葉に頷けば、船長は笑った。
宴、と言っても中心は船長とカイドウさんだ。
二人の周りはええっと、百獣海賊団の大看板と飛び六胞、うちの副船長と私含めた幹部陣。
下のフロアには百獣海賊団の構成員とうちの構成員が酒盛り中。
最初の一杯だけ飲み干して、肉類中心に食べた私は早々に輪から抜けて人気の少ないところで寛いでいる。
人気の少ない、と言っても中心から少し離れた建物の上にやってくる人間がいないだけで下からは賑やかな声は聞こえるんだけど。
宴の始まる前にうちの海賊団の紹介が改めてあったからプレジャーズやらギフターズやらウェイターズやら、百獣海賊団の構成員とすれ違っても喧嘩売られたりすることはない。
鬼ヶ島というこの島に足を踏み入れた時まではよかったけれど、中はそれなりに整地されているから平らなところを歩いた足が少し痛い。
もみもみと肉球を左手で揉みほぐし、ぐっぱぐっぱと足の指を広げる。
うん、まあ、平気。
賑やかな声を遮るようにフードを被り、それからその場で丸くなった。
けれど、羽ばたきのような音で思わず反射的に体勢を戻す。
……なんでこの人こっち来んの?普通はカイドウさんのところじゃね?
「そう警戒するな、何もしない」
火災のキング、大看板がただの幹部に声をかける必要性とは?
臨戦態勢にならなかっただけでも褒めてくれ、唸らなかっただけでも偉いでしょ、というか船長どうにかして!?
船長の方を見るも、なんか、泥酔してカイドウさんと肩組んでた。
あー……うん、確かに〝兄弟〟なんだなと思うくらい酒癖似てんな……
思わず呆れた私は悪くない。
それに尻尾は素直で足の間に挟まる。
しょーがない、格上だとわかる相手にどうしてビビらずにいられると?
キングは私の前にどっかりと座ると、持ってきたらしい樽の器を差し出した。
中身は甘そうなぶどうジュース。
あ、これ好きなやつだ。
器とキングを何度も見比べ、受け取ろうか悩んでいると案外そっと渡される。
「……ありがと」
すんすんと匂いを嗅げばぶどう以外の匂いはしない。
ちびちび舐めるように飲んでいると、変わらないな、と声がした。
「魚よりも肉が好きなのも、甘いモンが好きなのも、ビビると尻尾を足に挟む癖も、賑やかなところが苦手なのも、お前は変わらないな」
「……?」
なんだろう、なんか、覚えがあるような、ないような。
特徴的なマスクで表情はわからないけれど、唯一覗く目はどこかで見覚えがあるような気がする。
父親譲りの嗅覚はあるけれど、嗅覚が鋭くなったのは船長に拾ってもらう直前だ。
でも尻尾を足の間に挟むのは子どもの頃からだったし、船長に拾ってもらってからは外套羽織ってたからビビっていてもうちの海賊団以外に見られたことはない、はず。
子どもの頃に限定すると、あの奇妙な清潔感のある不気味な研究施設しか覚えがない。
賑やかなところが苦手っていうのは研究施設で上がる悲鳴が苦手だったのもあるし……まさか、ね。
こんな広い海で、そんな砂漠で色のついた一粒の砂を探し当てるなんてこと、あるわけない。
「叔父貴ィ!キングがお宅んとこの娘ちゃんに言い寄ってんぞー!!」
「あァん!?おうこらキング!!うちの娘に手ェ出したら兄弟んとこのモンでもぶっ飛ばすぞゴラァ!!」
「ウォロロロロ!!キングゥ!兄弟の娘はビビりなんだから怖がらせんなよォ!!」
ひっでえ酔っ払い共だ……それに船長の圧やば……
べしょりと耳がイカ耳になる。
クイーンの面白いモンを見たと言いたげな野次、船長ガチ切れの覇気を纏った圧、カイドウさんの愉快そうな笑い声。
ちらりとキングを見れば目に見えてわかる炎の量と怒気。
地獄かここは。
ひぃん……
思わず喉から情けない鳴き声のような音が漏れた。
『にーちゃ』
舌っ足らずな声を憶えている。
ふくふくとした柔らかな手が抱き上げてくれとねだるのを憶えている。
大きな黒い耳と尻尾、少し鋭い犬歯と爪。
いつも怯えて耳はべしょりと垂れ、少しぼさぼさの毛並みの尻尾は足の間に挟まっていて。
地獄だと感じたあの場所で、小さな柔らかい温もりは確かなものだった。
実験と称して満月の夜に外へ連れ出され、いやだいやだと泣き喚いて自分の片目と顔を自分の爪で引き裂いて、いたいいたいと泣いて眠れなかった子どもがいた。
慰めるのはおれの自己満足。
こいつは弱いから守らねえと、おれは強いからまもらねえと。
いつか、いつか一緒にこんなクソみたいな地獄を抜け出そうと幼い約束をして。
いつかは来た、一緒は来なかった。
おれだけ檻の外へ出て、枷を外して、小さなあいつを置いていった。
もしかしたら巻き込まれて死んだのかもしれねえ。
ミンク族と人間のハーフ、確かな力を秘めていてもあいつは幼い女の子。
少しの後悔と、おれを連れ出した男の野望へ希望を抱えて生きていく。
そういうモンだと思っていた。
「おれの兄弟分がガキ拾ったんだとよォ、嫁も取らねえまま子持ちになっちまったなァ」
カイドウさんと海へ出て数年、酒を片手に上機嫌なカイドウさんが自分の兄弟分の話をする。
おれも世話になった人だ、カイドウさんと変わらねえ体格で豪快さと任侠を持ち合わせた男。
あの人でも親になるもんなんだなと、珍しく感慨深くカイドウさんの話を聞いていた。
「兄弟は濁しちゃいるが犬みてえな娘だと、顔はひでえ傷があるが可愛らしい可愛らしいってあんな野郎が親になるなんてな」
「犬……」
普段なら気にも止めなかっただろうな。
犬みてえな、顔に酷い傷がある、それだけであの柔らかな小さな子どもを思い出す。
何年も数十年も経って、ワノ国へ根を張り、カイドウさんの兄弟分が時折訪れる中、柄にもなく姿を探した。
噂は聞こえていた、もしかしたらと期待した、けれどあんな臆病で泣き虫の子どもがあの人の下で生きていけるものかと否定もした。
何度もカイドウさんの兄弟分が訪れるが、娘は縄張りで留守番だ、番犬だからな!とあの人は笑う。
「お前いつか連れて来いよ。お前の娘ならおれの姪みてえなモンじゃねえか」
「あいつがもうちっと成長したら連れて来てやんよ。あーでもお前もキングもでけえからうちの娘がビビるかもな!」
「仮にも幹部だろォが!そんなんで平気か?」
「やる時ゃやる可愛い娘だからなァ!」
カイドウさんとあの人が飲んでいる時に自然と聞き耳を立てた。
もしかしたら、もしかしたら、そんな淡い期待。
年齢も特徴も、何の因果かと悪態をつくくらい一致していて。
もしもあの子どもだったらどうするか。
いつかも一緒も、あいつに果たせてやれなかった約束、
恨んでんじゃねえか、憎んでんじゃねえか。
もしも、おれがあいつに置いていかれていたら、きっと恨んでいた、憎んでいた。
きっと、寂しいと、悲しいと、泣いていた。
そして、訪れたその瞬間。
「可愛い顔見せてやんな!」
半ば強引に剥ぎ取られたフード。
顕になる大きな黒い耳、整った顔に残る鋭い古傷。
とっくにいい年のはずなのにべしょりと平らになった耳に足に挟まるあの時より毛艶のいい黒い尻尾。
可愛らしい柔らかな小さな子どもが、成長してあどけなさを残した女になって、怯えたようにそこにいた。
今度こそ一緒にいよう。
そう、新しい約束を告げたら不思議そうに首を傾げて頷いてくれるだろうか。
百獣海賊団傘下の海賊団の女
狼のミンク族と人間のハーフ。
物心つく前に政府の研究施設に捕らわれてハーフでも月の獅子になるのか実験されていた。
研究施設が壊れた時に逃げ出し、なんとか生き延びてカイドウの兄弟分に拾われる。
とんでもない幼少期を過ごしたことから臆病。
黒い大きな耳と尻尾、狼のような足と右手、自分で衝動的に引き裂いた顔の傷と塞がった右目が特徴。
月の獅子 スーロンになるのを怖がっているのでフードを被っている。
とんでもなくビビり、一応名のある海賊団の幹部だけど耳はべしょりとイカ耳になって尻尾は足の間に挟まっているのがデフォ。
研究施設にいた頃、背中に黒い翼と炎を持つ少年を兄貴分と慕っていた。
三メートル近くの身長と三十そこそこの年齢だけどどこか幼さが残る。
キング
百獣海賊団の大看板。
研究施設にいた頃、犬みたいな幼女に慕われていたし可愛がっていた。
幼女の柔らかさに心を救われていたけれど、いつか一緒に逃げ出そうという約束を果たせなかったことが棘として残っている、残っていた。
この度カイドウの兄弟分が幼女を拾ったらしく、しかも問題なく成長して女になっているのを見て心中賑やかだったり。
後ろめたさがある、後悔もある。
最初の約束は果たせなかったけど、今度は新しい約束を。
カイドウ
百獣海賊団の総督。
百獣海賊団立ち上げの頃からの付き合いがある兄弟分がいる。
おれの姪みてえなモンだよな、と思っているけれどビビられているのもわかっている。
同時に兄弟分が娘と良好な仲が羨ましく、パパ友として育児を相談したこともあったがあんまり役に立たなかった。
カイドウの兄弟分
カイドウ傘下の海賊団を率いる船長。
海賊団立ち上げから五年後くらいに犬みたいな女の子を拾って娘のように可愛がっている。
どんなに成長しても娘は娘、手を出したらぶっ飛ばす。
娘が身長の高さと年齢の割に幼さが残るのはこの人の接し方が原因の一端。だって娘可愛いもん!