「……なあ名前、こいつずっと俺のこと睨んでんだけどなんとかならねえか」
「さっきからリビングに戻してもそっち行くんだよ」
「風呂のドアまで開けんだぜ?」
「ゼロはドアというドア開けんのプロだから仕方ない」
寝間着とタオル置いておくね、と名前は脱衣所から出て行った。
残されたのは湯舟に浸かっている俺と、ついさっき体当たりをするように風呂のドアを開けた黒猫だ。
さすがにお湯や水は苦手なのか、風呂場にまでは入って来ねェがめちゃくちゃ睨む、たまに何か文句を言うようにぶみぶみ鳴く。
簓と盧笙にイケブクロにいる三兄弟のこと、ヒプノシスマイクのこと、中王区のことを打ち明けた。
その次の日に名前の家に連れてこられ、とりあえず夕食をご馳走になり、風呂にまで促されて今に至る。
今まで通りに振る舞うあいつにモヤモヤしたものはついて回るがな。
話そうと思った。
簓と盧笙は同じどついたれ本舗のチームメイトだ、あのふたりには打ち明けた方がいいと思った。
まあ、あいつら真剣に全力でぶつかってくるからな、それに応えねえのも悪ィし失礼だろ。
なら、名前は?
あのふたりとはまた別の、しかしこのオオサカであのふたりの次に付き合いが長い女だ。
お互いに情もある、夜だって数え切れない程重ねている。
そりゃ、那由多とどちらが、なんて聞かれりゃ……いや、今はやめておこう。
あいつは話さなくていいと言った、今のままがいいと言った。
信頼関係がないとは言わない、むしろ強固だと俺は感じている。
「……名前なりのプライド、か」
お前のご主人は強いよなァ。
そう黒猫に声をかければドヤ顔のような表情で可愛くない鳴き声をひとつ上げた。
風呂から上がって用意された寝間着に袖を通す。
しばらく泊まりに来てなかったからか、着慣れたスウェットからは名前と同じ匂いがした。
石鹸のような、清潔感のある匂いだがすぐ台無しになるんだろうな。
足下をちょろちょろしている黒猫が鬱陶しかったから脇に抱えれば、めちゃくちゃ抵抗される。
いてえいてえ、けりけりすんじゃねえよいい子にしてろ。
リビングに戻れば名前の姿はなく、白猫がベランダへ続く窓に向かって鳴いていた。
カーテンの隙間から見えるのは人影、なんだそこにいんのか。
強引に俺の腕から逃れた黒猫が白猫に近づけば、振り向いた白猫が俺に気づき、一目散にキャットタワーのてっぺんまで逃げるように登っていく。
嫌われちまったかねェ……しばらく会ってなかったから少し忘れているだけだよ、と言われたものの、そこまで露骨に逃げなくてもよくねえか?
……名前にも、もっとわかりやすい態度をとられれば、楽だったんだろうけどな。
ローテーブルに置いてあった自分の煙草とライターを手に、猫たちが窓へ近づかないことを確認してこの家で一番大きな窓を開けた。
季節も移ろってきているのか、日中は暖かだったのに少し肌寒い。
俺に気づいた名前の口には煙草が咥えられている。
「温まった?」
「おう。寒くねえか?」
「コーヒー持ってきてるよ」
欄干に凭れかかり、ぼうっと景色を見るこいつの手には愛用しているマグカップが。
飲む?と渡されたので受け取って口にすればとてもぬるかった。
てっきりそれなりに温かいものだと思っていた、顔に出たのか俺の顔を見て名前が笑う。
「ぬるい?」
「ぬるいだろこれ、簓のギャグの方がまだマシだぞ」
「簓くん泣くよ」
「嘘泣きに決まってんだろ」
なんでや!とツッコミを入れる簓の姿が脳裏に浮かんだが、煙草を咥え、火をつけたところで消えていった。
特にどちらかから話すこともなく、並んで紫煙を燻らせる。
広めの欄干に置かれている灰皿に時折煙草の灰を落とし、また口に咥えて息と共に煙を吸って、その繰り返し。
見ないうちに名前の髪が伸びたような気がする。
元々長くはあったが背中までの長さが腰に届いていた。
伸ばしてんのか、と聞けば忙しくて美容院行ってないだけだよ、と名前は肩を竦める。
「纏めても重いし、走るといつもより靡いて空気抵抗を感じるからそろそろ美容院行こうとは思ってる」
「なかなか髪に対して空気抵抗なんて言葉使うやついねえぞ」
そんだけ重いって言いたいんだろうなあ。
ふう、と煙を吐き出す名前の髪に触れてみた。
俺の前に風呂に入っていたからか、同じシャンプーの匂いが漂ってくる。
見た目のボリュームに圧倒されるが、思ったよりも重さは感じず指と指の間を絡むことなく通り過ぎた。
「新人だった頃と同じくらいまで切ろうかな、とは思ったけどやめた」
「なんでだよ、似合って可愛かったじゃねえか」
「シルエット変わっただけでロクとゼロがビビる可能性が高い」
なんでも猫は飼い主のシルエットが変わっただけでダメなこともあるらしい。
なんなら忘れたりもする、見事にしばらく顔を出さなかった俺に当てはまるな。
元の長さにするよ、と名前は胸程の高さに手を当てた。
ああ、本当に今まで通りに振る舞う。
ありがたいとも、助かるとも思う傍らもっと踏み込んでくれないのかと不満に思う自分がいるのも事実だ。
だが、それは俺のわがままだ。
簓と盧笙に言われるまで話さなかったのとはまた違う。
名前にも、知ってほしいと訴える自分がいるのに。
あーあァ、やだねェ。
こいつはいつも通り、今まで通りを望んでいるのにそれを足りねェと思うのは。
大きく煙を吸い込んで吐き出し、思い切って名前の肩に腕を回して引き寄せた。
同じシャンプーの匂い、少し甘めではあるが苦い煙草の匂い。
それから少し冷えた肩先の体温。
「天谷奴さん?」
戸惑いの声を上げる名前の顔は見えない。
そう、か。
思ったよりも随分長い付き合いの中で、こいつだけが俺を名前で呼ばないのはそういうことか。
全部に気づいていたわけじゃねえとは思う。
それでも職業柄察してはいたのだろう。
俺は騙す側ではあるが、こいつは騙される側ではなくて暴く側だ。
天谷奴と、呼んでいたのはこいつなりのわかりやすい一線だったんだ。
「……敵わねえなあ」
「何が?……って痛いんだけど、ちょっ……ホールドしてる、頭ホールドしてる……!」
はあ、と溜め息を隠すように名前の頭を抱え込めば名前は必死に俺の腕をタップする。
俺が名前を欺いているつもりだったんだけどなァ……自覚はないのかもしれねえが、欺いていたのは名前じゃねえか。
わかった、わかったよ。
名前の望むように今まで通りでいてやる。
けれどな、今のところ終わるつもりもねぇし、告げなくていいと言った言葉は飲み込んでおいてやるよ。
終わるなら、きちんと面と向かってだ。
それが名前の傷になってもいい、なかったことにはさせてやらない。
あの歪んだ泣くに泣けない笑みがどちらかにはっきりするように、俺は立ち回ってやる。
パッと名前を解放し、嫌そうな顔をした彼女の機嫌を取るように冷たくなった名前の頬を撫でた。