久我虎徹と水族館に行く

「久我さん、水族館行ったことないんですか?」

そんな名前ちゃんの一言がきっかけだった。
家族でどこかに出かけるとか、ダチと遊びに行くとか、正直多くはない、前者はゼロだ。
煮え切らない返事をすると、名前ちゃんはそれなら、と言葉を続ける。

「今週末、一緒に行きませんか?今月末で期限切れちゃうペアチケットをもらったんですけど、なかなか大学の友だちとも都合つかなくて……」

「……俺でいいの?」

「久我さんがよかったら久我さんとがいいです」

マジで!?
そういえば連絡先も交換してなかったですね、と仕事着のエプロンからスマートフォンを取り出す姿を見て慌ててスマートフォンを取り出した。
わ、わわわわわわ……!
いつか聞こうと思ってた連絡先をこんな形でゲットするなんて……!
感激していると、名前ちゃんはバイトが終わったら連絡します、と穏やかに微笑む。
これ、実質デートでは……!?
柄にもなく浮かれているのがわかる、佐古のことも言えねえなこりゃ。
今週末、今週末……なるべくシノギが重ならねえようにやんねえと。
カシラや兄貴たちに「いつもより気合入ってるな」と言われつつ、週末までに終わらせるモンは終わらせて、名前ちゃんとトークアプリでやりとりしながら週末を心待ちにした。
そして待ちに待った週末。
入口で待ち合わせにしましょう、と可愛らしい顔文字を使う名前ちゃんのメッセージに返信をしてそわそわしたまま眠りについたのが昨晩だ。
格好変じゃねえかな……名前ちゃんどんな格好して来んのかな。
ちょっと早く到着したけれど、振動したスマートフォンを見てみれば名前ちゃんももう到着するらしい。
にしても、意外と人がいるもんだな。
家族連れ、カップル、友達同士、仲にはひとりで入って行くやつ。
いろんなやつが楽しそうに表情を緩ませながら向かっていく。

「久我さん!」

待っている間に喫煙所にでも行こうかと思った頃、名前ちゃんの声がした。
その方向へ目を向けると、いつものラフな姿ではなく可愛らしいワンピースだ。
シュシュで纏めている髪も下ろしていてとても新鮮だ……眼福……来てよかった……
靴もスニーカーじゃなくて低めのヒール、女の子ってすごいな、ちょっと服や靴を変えただけでこんなに印象が変わるなんて。
少しだけ目元や口元も鮮やかでついそこへ目が釘付けになる。

「待たせちゃいました?」

「いや、少し前についたんだ」

「それならよかった」

待たせちゃったら申し訳ないですし、とはにかむ名前ちゃん。
あー可愛い……
肩からかけている鞄からチケットを2枚取り出すと、早速行きましょう、と俺の腕を引いた。
入口でチケットを見せ、判子が押されるとそれを1枚俺に渡す。
可愛らしいイルカが印刷されたもの、ペアチケットだからか名前ちゃんの分も同じ印刷がされていた。

「久我さん、気になるところとかあります?」

慣れたようにパンフレットを手にして開く名前ちゃんの手元を覗き込む。
順路は記されているものの、思っていたより広くてよくわからない。
うーんと悩んでいると、名前ちゃんは笑って順路通りに行きましょうかと腕を引いた。
初めて入る水族館、第一印象はとても神秘的なものだった。
ほとんど青一色。
図らずとも青の水槽の中を泳ぐ魚の鱗を反射してキラキラと光る。

「綺麗でしょう?」

「ああ……」

目を奪われるってのはこのことだ。
魚たちは常に動いているから水槽の中は同じ景色になることはない。
名前ちゃんに促されるまま進めば、水槽が変わり、中の魚が変われど神秘的なのは変わらない。
たまに解説を読んでへえーと感心することもあった。
……まあ、あの、ぶっちゃけ処理する時に海使うことあるけどこんな綺麗なところにやってたのかと思っちまったけどさ。
しばらく進んでいると、館内アナウンスが流れる。

『まもなくショースタジアムにてイルカショーが開催されます。ご覧のお客様はショースタジアムへお越しくださいませ』

「イルカショー?」

ってあの?
イルカがジャンプしたりするやつ?

「せっかくだから見に行きます?」

「う、うん!」

「この時間は空いているはずですから前の席も座れますけど……」

「前で!」

はしゃいでしまうのはしょうがない。
憧れていない、わけではなかったから。
そんな俺を見て名前ちゃんはきょとんと目を丸くすると、すぐ優しく微笑んだ。
空いてはいても席は埋まってしまうからって俺は場所取りに行って、名前ちゃんは始まるまで何か食べましょうって売店に向かうことに。
レインコート要ります?って聞かれたけど雨が降るわけじゃねえし大丈夫って返しておいた。
だってイルカショーでそんなに水被るわけねえだろ。
……まあ、後で酷い目に遭うわけだが。
ショーが始まる前でもプールのイルカたちはのんびり優雅に泳いでいたり、トレーナーってのかな、その人たちと遊ぶように水面に飛び出たり、始まってもないのにワクワクする。

「久我さん、コーヒーでよかったですか?」

「あ、ごめんな。買いに行かせちまって……お金……」

「奢りです。久我さん楽しそうにしているから私も楽しいですし」

俺に飲み物を手渡して名前ちゃんはいそいそと買ってきたレインコートに袖を通した。
透明な青のレインコート、ところどころイルカやアシカのプリントがされていて可愛い。
ちゃんとフードも被っていて、いやあのほんとに可愛い。

「……久我さん、本当にレインコートなくて大丈夫ですか?」

「大丈夫だよ。ちょっと水かかるだけだろ?」

「うーん……そうですね!」

なんかいい笑顔の名前ちゃん。
俺はコーヒーを、名前ちゃんはカフェラテを飲みながらショーが始まるのを待つ。
名前ちゃんがレインコートを買った理由とか、俺に大丈夫か聞いた理由とか、いい笑顔の理由がわかったのはショーが始まって数分後。
目の前を思ったよりも大きなイルカが予想より大きく跳び上がり、さらに予想の上を行く水飛沫を上げてからだった。

「……名前ちゃん」

「はい?」

「なんで言ってくんなかったの?」

「久我さん大丈夫って言ってたし、まあいっかと思って!」

わあいい笑顔可愛いなぁ……
ショーが終わる頃には上半身がめちゃくちゃ水浸しになった俺はびしょ濡れのレインコートを片付ける名前ちゃんをちょっと恨めしく思いつつ、残りの展示を見る前にふたりで近くの売店に駆け込む。
似合ってます!可愛いですよ!!
そんな風に売っていた可愛いイルカのTシャツに着替えた俺に声をかける名前ちゃんの顔を見て、まあいっか、たまには、なんて思った。
帰りの俺たちを一条の兄貴に目撃されたけど。