乖離と甘受

「おそらく風邪ですね。最近冷えてきましたしここでの生活にも慣れて気が抜けたかと。念の為解熱剤と胃腸薬を処方しましょう、とりあえず一回分はここに置いておきますから何か食べてから飲んでくださいね。残りは後で届けさせます」

お大事に、と出て行った往診の医師と入れ替わりに御堂さんが部屋へ入る。
なんとなくわかっていたけど、そうやって口に出されるのは、その、ちょっと困る、ほんっとに。
なんで胃腸薬……?と思ったけど、解熱剤がよく効く分副反応で胃腸の症状が出るやつだった、なるほど。
御堂さんは布団の傍らに腰を下ろすと、身を起こしている私の頬に触れた。
ああ、ひんやりしてきもちいい。
さっき熱を測ったらいくつだったっけ、割りと健康優良児だったと思うんだけどな。

「ゆっくり休みなさい。必要なものは持ってこさせよう」

「はい……」

冷たい手が離れていくのをどこか残念だなと感じながら布団に横たわる。
最後に私の額を撫で、少しだけ表情を和らげると御堂さんは部屋を出て行った。
咳込まないだけ楽な方なのかな、滅多に風邪引いたことないからよくわかんないけど。
というかここにいて風邪引く要素ないもんね。
夜がやだなと思うことはあるけど、食事は美味しいのが出るし、布団は高級で柔らかいし、最初は着慣れなかったけど着物だって……
高熱からくるのか、少し痛い体を丸くして、そこで気づいた。
……今、少しでも心地いいと思わなきゃ思わないことだった?
体は熱いのに、心臓が冷えていく感覚。
それに、さっきだって御堂さんの手が離れていくのを、残念って?
うそ、うそだ。
だって、それじゃまるで、まるで。
ああ、ああ、考えちゃだめだ、こんなの私は望んでいない、ここは心地いい場所じゃない。
だってだって、そしたら帰りたいって泣いていた自分はなんだったの?
逃げ出そうとして、ひとりで立てない傷を刻まれた自分は?身勝手に体を暴かれた自分は?死にたくはないからって、そんな、そんなことのために大切なものを踏み躙られていた自分は、なんだった?
考えるな、考えるな、考えるな。
気の迷い、きっとそう。
熱が出る時って気持ちも不安定になる、だからもう寝よう。
大丈夫、大丈夫。
きっと熱が下がれば気持ちも落ち着くはずだから。

 

魘されているのか、穏やかとは言い難い表情で眠る名前の頬に指を滑らせる。
昼食は結局食べなかったようだ、使用人からは声をかけても返事がなく眠っている様子だから一度下げたと報告はもらっている。
解熱剤を飲んでもいないため、熱が下がるはずもない。
この状態ではさすがに起こすもの憚られるが、仕方あるまい。
極力優しく声をかければ名前は唸りながらもゆっくりと目を開けた。
少々潤む瞳に掻き立てられるものもあるが、苦しそうに肩で息をしている姿に無体は働けぬな。
さて、空きっ腹に薬を流し込むのは抵抗はあるが、かといって食事を摂れるまで待つのも惜しい。
名前に体を起こす様に促せば、のろのろと名前は身を起こした。
が、少々様子がおかしい。
俯いている名前の頬を雫が伝う。
すんすんと鼻を啜り、手のひらで目を擦るとその摩擦で目元が赤くなった。

「どうした、怖い夢でも見たか?」

私の声かけに弱々しく首を横に振る。
それでもやけに息は荒く、表情も険しい。
相変わらずと言えばよいのか、自分の意思を他人へ伝えるのが苦手な名前は促してもいつも視線を彷徨わせて唇を噛む、が、さすがに具合の悪い時はそうでもないようだ。

「わかんない、わかんないの。だってちがうのに。わたし、こんなことおもってないはずなのに、おもってるの」

たどたどしい言葉だ。
普段の名前が口にする印象のない抽象的な言葉。
何度も何度も涙を拭おうとする名前の傍らへ寄り、熱を持った体を私の膝へ乗せた。
なんとなくではあるが、あの医者の言葉に思い当たることがひとつ。
要は、ここでの生活に慣れてしまったのだろう。
ただそれは、恋しい家族と引き離され、家族がいないことに慣れてしまったということを突きつけるものだ。
きっと名前はショックを受けた。
受け入れるつもりなぞなかったのだから。
せめて心は、と思っていただろうに体が受け入れてしまった。
それを自覚することは名前にとっては精神的な酷い苦痛だ。
こんなにも私を受け入れることに慣れてしまい、おそらく心地いいと感じている。
それのなんとまあ、気分のいいことか。
ちがう、ちがう、そう魘されるように繰り返す名前。

「名前、落ち着きなさい。何が違うのか話してごらん」

「う、あ……」

「怒らないよ、私が君に怒ったことはないだろう」

ふむ、肝心なところは本人の口からは引き出せないか。
言葉にするか悩み、何度か唇をはくはくと開閉させる名前が、私の顔を見上げ、そして意を決したように再度口を開いた。

「わたし、かえりたかったのに、かえりたいはずだったのに、ここがいいなっておもっちゃって」

「それは誰かに怒られるようなことかな?」

「わかんない、でも、ちがう、こんなのはちがう」

「ああ、言い方を変えよう。その帰るところは、いいなと思うところかね?」

「……それは……」

家族が恋しくて泣いている時も確かにあったが、それは本当に家族に対しての恋しさだろうか。
思うに、名前は愛情不足なのではないかと感じることがあった。
家族からなら愛情をもらえるから、だから家族が恋しいのだ。
蔑ろにされていたわけではないだろうが、確か名字家は名前の他にも跡継ぎに成りえる兄弟たちがいたはず。
どうしても政界に関わる家、特に旧華族の人間は自然と跡継ぎになる者へ愛情を注ぐ傾向があるのは確かだ。
それに対して、深く愛情を注がれる兄弟たちと自分を比べ、飢えるのはもはや必然か。
言葉に詰まる名前の背を撫で、擦り過ぎて赤くなった目元を撫でる。

「寂しい思いはさせないであげよう。帰してやる以外のことならなんでも叶えてあげよう」

「……」

「試しに口にしてみるといい」

いつも本心を押し込めている唇に触れれば、躊躇いながらも名前は口を開いた。

「……ぎゅ、って……してください」

……おや。
想像の斜め上の可愛らしい言葉。
熱に加えて羞恥心からさらに名前の頬が赤く染まる。

「ぎゅってして、てをつないで……ねるまでそばにいて……」

「もちろん」

思っている以上に、弱っていたようだ。
可愛らしい望みを叶えるべく、華奢な体に腕を回して抱きしめる。
普段なら逃げようとする素振りを見せる名前が、まるで甘えるかのように自分から私へ擦り寄った。
数日後、高熱から回復した名前の部屋を訪れると、自分の言葉や行動を覚えているのか顔を赤くして布団へ籠城していたが、おいでと差し出した私の手に迷うことなく自分の手を重ねた。