鰭がないと泳げない

思えば、浅はかだったんだと思う。
この人がどんな人なのか、私に対してどんな感情を抱いているのか。
あまりにも知ろうとしなかったし、でもその結果がこんなのはあんまりだと思うし。
膝を抱え、久しぶりにじくじくと痛む足首を掴む。
もう傷そのものは塞がっている、ケロイドにならなかっただけいいんだろうけど動かないからよくはないか。
立とうと思えば立てるんだろうけど、ほんの一瞬だ。
すぐ倒れてしまうし、何かに掴まっても自分の体を支えることはできない。
……もしも、あの時の自分が早めになにもかも諦めていたら、今でも歩けていたんだろうか。

 

何度かこの屋敷から逃げ出そうとしては見つかって与えられた部屋に連れ戻された。
黒服の似たような人たちのこともあれば、周防くんや冬馬くん、榊くんのこともあった。
榊くんなんか私を米俵のように抱えるし、周防くんはよくわからんこと言うし、冬馬くんはそのふたりに比べたら優しいっちゃ優しいけど有無を言わさずだし。
そもそもこの迷路みたいな大きな屋敷から逃げ出すなんてひとりでは難易度高すぎる。
その日はここへ連れてこられて数日経っていた。
さすがに今回でここから逃げ出そうと決心して、何度も失敗した経験を活かして割りといいところまで行けたんだ。
周防くんは仕事の前に忠告していた、冬馬くんは仕事の前に諭していた、榊くんは寝に帰っていた。
多分、この三人は御堂さんの護衛の中でも腕はとても確かな三人で、でもこの三人がいないなら行ける。
──行けるわけ、ないのに。
少しだけ舐めていた、ここがどんな場所なのか理解していなかった、彼が私へ向ける感情を、執着とはどんなものなのかわかっていなかった。
……わかっていたところで、って今なら思うけど。
似たような部屋が並ぶ屋敷、いつもと違って人の通りが多いような気がする場所までやってきて気が早いけど安堵の息を吐く。
いつもだと部屋を出て数分で見つかっていたけど、今回は十五分くらいかな。
ってことは逃げ出せそう……!
取り上げられたスマートフォンや財布はもう諦めよう、家族はきっと心配している、仕事だって今度大きな案件を先輩と企画立てるんだから。
ああ、心臓がドキドキしている、嫌なドキドキだ。
着慣れない着物でどこまで走れるだろうか、今年の職場の忘年会の余興では着物で走るのどうですかって言ってみよう。
駆け出すタイミングを見計らって、自分を落ち着かせるために深呼吸をして、それで──

「ああ、残念だよ。私としては丁寧に扱っているつもりなのだがね」

息が詰まるとは、こういうことか。
深呼吸をしていたのに、後ろから聞こえてきた穏やかで、でも冷たさを孕む声に気道が変な音を出す。
振り向きたくない、このまま逃げ出してしまいたい。
後ろから伸びてきた手が私の頬を撫で、そしてそっと顎を掴む。
それに促されるように、振り向けば、御堂さんの冷たい紫の瞳が私を見下ろしていた。

「私にもね、ある程度の慈悲はあるのだよ。それが君なら尚更だ、だが、取り上げなければならないものがありそうだ」

穏やかで、子どもに言い聞かせるような、でも底知れぬ冷たさがある声。
外まであと少しのあそこからどうやって連れ戻されたのかは覚えていない。
一番見つかってはいけない人に見つかった、それだけが頭の中をぐるぐるしていて、自分の命に対しても危機感を覚えていて。
気が付けば、与えられた部屋にいた。
畳の上に座り込んだ私を御堂さんが見下ろすけれど、私は恐ろしくて顔を上げられない。
部屋の外にはひとり、私をこの屋敷へ連れてきた白髪の男性が控えている。
どうしよう、私どうなるんだろう。
そもそもなんでここへいるのかもわからないのに、わかるのは誘拐紛いのことをされていることくらい。
何が目的なのかもわからない、だって私は、お父さんやおじいちゃんと比べて御堂さんと接点もない。
ふと視界に、私に一歩近づいた御堂さんの手にきらりと光る何かが握られているのが見えた。

「え……」

「痛い思いをさせるつもりはなかったが、それを取り上げるには痛みを伴ってしまうな」

何を、言っているんだろう。
なんで、そんな、ナイフを持っているんだろう。
ああ、これは、逃げなきゃ。
無意識だったと思う、滑稽だったと思う。
こんな部屋に逃げ場なんてないのに、背を向けて這うように逃げようとする女の、なんて滑稽なことか。

「っあああああああ!?」

焼けるような痛みが両足首に走る。
知らない、こんな痛みは、感じたことがない。
足首を襲う痛みと続く衝撃に思わず前のめりに体が倒れた。
熱い、痛い、なにこれ。
おそるおそる体を起こして痛みの発生源である自分の足へ目を向ける。
赤い……血?
足首、斬られた……?
激痛に襲われながらも血だまりを生み続けている足を動かそうとして、そこで気づいた。
おかしいな、動かない。
なんで、なんで。

「櫻田、止血をして医者を呼べ。ただし、縫合させるな」

「了解いたしました」

痛い、痛い。
櫻田と呼ばれた男性が御堂さんからナイフを受け取り、私の前に身を屈めて出血している箇所より少し上の部分に何か紐状のものを巻き付けて締め上げる。
それだって痛いのに、痛く感じない私の頭はおかしくなったのだろうか。
痛みで視界が滲む。
そんな私を見下ろしている御堂さんへ視線を向けると、弓なりに目を細めた。

 

「……いったい」

古傷は冷えに弱いと言うけれど、正直私のこの傷はそこまで古くはないと思うんだけど。
無慈悲に歩く手段を取り上げられた割りには丁寧に治療されたと思う。
ただ、縫合するなと言ったのは、私の断ち切ったアキレス腱を縫合するなという意味だったらしい。
来た医者も困ってたもん、でも塗り薬と飲み薬で化膿することもなく、時間はかかったけど塞がった。
本当に、しんどい。
膝に顔を埋め、じくじくする足首を擦る。
こうすると少しだけ楽になるような気がするの、痛み止めもらってもたかが知れているし。
しばらくそうしていると、障子の向こうから御堂さんの声がした。
特に返事をせずにいると、遠慮なく障子が開く音がする。
布擦れの音、畳が軋む音が近づいてきて、私の前で止まったのを感じ取ってから顔を上げた。
ああ、どんな顔しているかな、私。
御堂さんは私の様子に目を細めると、その場に腰を下ろして私の足に触れる。

「痛むか……冷えると傷は疼くものだ。必要なら薬を持ってこさせよう」

「……大丈夫です。あんまり、効いた感じないし」

「そうか」

私の隣に移動した御堂さんは胡坐をかくと、おいで、と膝を叩いた。
すっかり慣れて抵抗感も薄れた私はおそるおそる御堂さんに従う。
定位置と言っても過言じゃないような気がしてきた。
そのまま御堂さんに体を預ければ、機嫌よさげに私の頬に指を滑らせる。
何度か往復すると、それはするりと離れ、私の足首を覆った。
なんだっけな……手当て、だっけ……うろ覚えだから自信ないけど。
思ったよりも心地よくて、少しだけ痛みが和らいだ気がした。