幸せの壊れる音を知っているか

音なんてしない、あるのは非情な現実だけだ。

「……ねえちゃん」

声をかけても返事はない。
暗い安置所、オレの目の前にある台に横たわるその人の頬にそっと手を滑らせた。
固く閉じられた瞼、冷たい肌、上下しない胸、竜胆が泣きじゃくる声、いつものやつらが嘆く声、悼む声。
何もかもがオレに現実を突きつける。
ねえちゃんが死んだ。
事故だって、ほぼ即死だって。
いつものように絵を描きに出かけて、絵を描いている最中に居眠り運転のトラックが突っ込んで、死んだって。
最初はいろいろ勘繰った、敵対する組織なんて山ほどあるから、オレらへの報復にねえちゃん殺したんじゃねえかって。
でも違う、ただの事故。
トラックの運転手はただの一般人。
何をしようにも檻の中、多分もう手は出せないんだろう。

「蘭」

ふと声をかけられて顔を上げる。
振り向けばボスがいた。
後ろには三途も、手には何か持っている。
あ、見覚えのあるものだ。
ねえちゃんが愛用していた鞄、いつもスケッチブックや持ち出し用の画材を入れていたやつだ。
三途がオレに近づいてそれを割れ物でも扱うかのようにオレに渡す。

「それだけは回収できたんだ」

「……」

「……オレらは外にいる、改めて姐さんに会いに来るよ」

ぼんやりとボスが何か言いたげな三途を連れて外へ出るのを見送った。
渡されたねえちゃんの鞄、特に何をするでもなくそれに手を突っ込む。
可愛かった鞄は汚れていて、ねえちゃん残念がるだろうなと思った。
勝手に鞄漁ったら怒られんな、何されんだろ。
手に当たったものを取り出す。
泥や血で黒ずんでしまった、ねえちゃんのスケッチブックだ。
パラパラと捲っていけば、そこにはねえちゃんが好きで描いていたものがたくさんある。
空が好きだった。
青い空も、薄暗い空も、夜空も、どんな空だってねえちゃんは手にしようと描いていた。
時には落描きなんて言ってデフォルメされたオレや竜胆を描いたり、何描いたかわかんねえもんだって描いていた。
捲っていくと、一番汚れてしまったページで手が止まる。
目が、熱くなった。

「ほん、と、さァ……」

変わらない。
ねえちゃんはオレと竜胆をいくつになっても変わらねえなって言うけれど、ねえちゃんだって変わらねえじゃん。
綺麗な青空、赤い絵の具をぶちまけたのかってくらい、汚れてしまっているけれど。
まるであの日の絵のようで。
ガキの頃ねえちゃんにイタズラばかりして、綺麗な空の絵に黒の絵の具をぶちまけて、泣くほど酷い目に遭った。
けれど、あの時まで本気で怒る人に会ったことがなくて、ちょっと嬉しくて、好きになって、ずっと一緒がいいなって。
それが叶わなくなる時に、あの日と同じ絵を描いてるなんてさ。

「名前ねえちゃん……」

起きろよ、いつもみたいに、絵をぐちゃぐちゃにしやがってって、起きて、怒って。

 

何も音がしない。
時計が淡々と時を刻む音、自分の心臓の音、それは聞こえるのに、この部屋の主であるねーちゃんの音は何もない。
ねーちゃんの葬儀はオレら梵天だけで行った。
梵天の人間だった訳じゃねえけど、一般人ではあったけれど、オレらが身内だから。
交流のあった、オレらでもわかるねーちゃんの知り合いには一報だけ。
みんながみんな悲しんでいた、惜しんでいた、悼んでいた。
ねーちゃんは、いろんな人に愛されていた。
テレビなんかでも放送されていたけれど一番でかいニュースとして流れていたのはSNSで、トレンドになるくらいには取り上げられていた。

「ねーちゃん……」

窓際に置かれたベッドに横たわる。
部屋の主がいなくなったから、置かれたものはそのままだ。
ローテーブルに広げられた絵も、中途半端に残っている水入れも。
パレットに出されたままの絵の具はとうに乾いてしまっている。
最期まで絵を描いていたらしいねーちゃんはほぼ即死だったから痛みを感じることも苦しむこともなかったそうだ。
よかった、と思う。
痛みを感じることも苦しむこともなかったんだから、楽に逝けたんだろうな。
兄ちゃんは気丈だ。
表向きはいつも通り、それこそあの三途でも心配するくらいには。
でもオレは知っている、ずっと兄ちゃん泣いているんだよ。
ぐちゃぐちゃになったねーちゃんの絵を大切に抱きしめて、ねーちゃんの名前を呼んで。

「名前ねーちゃん」

呼んでもねーちゃんはいない。
ぐちゃぐちゃになった絵も綺麗に直らないし、もう新しい絵を見ることも叶わない。
ここで眠るねーちゃんのところに潜り込もうとすることもない、ここでねーちゃんが絵を描くこともない。
オレらの名前を呼ばれることも、オレらを怒ることも。
もう、ないんだよな。

「……ずっと、一緒がよかった」

どんなに怒ってもいい、しょうもねえことしやがってって怒ってほしい。
ずっと一緒がいい、一緒がよかった。
少しだけねーちゃんの匂いが残っているベッドでそのまま目を閉じた。


もしもの話
おねえさんの名前の由来である花の花言葉は「幸せを招く」「永久の幸福」「悲しき思い出」

2023年7月29日