名前が死んでどれくらい経っただろうか。
あれは不運な事故だった、誰がどう見ても誰かの意図なんて感じない、不運な事故。
そんな事故で姉貴分を亡くした灰谷兄弟は、今では平静を装っていた。
いつもと変わらない言葉、いつもと変わらない行動、ただ、表情が抜け落ちてしまったようで。
時折ぽつりと呟かれるあいつの名前、大好きな姉貴分を失うとこうも変わるもんなのかと思う。
新しい絵が増えることはない、反社会的勢力の事務所であいつが怒る声は聞こえない、灰谷兄弟が怒られて泣いて許しを乞うような声だってもうない。
オマエ自分では感じねえかもしれねえけどすげえやつだったんだよ、反社のオレらがまだただの人間なんだなと思わせるくらいには、普通が眩しいと思うような人間だったんだ。
きっとオマエは何言ってんだよなんて顔を顰めるんだろうけどな。
名前の絵を取引に使わなくなった九井が新しい金策を練っていたり、ボスへの差し入れをわざと多く買ってきては名前に余りを渡していた春千夜が余った差し入れを見ては落ち込んだり、よく灰谷家へ行っていた望月や鶴蝶は飯が物足りねえとぼやいていたり、ボスもどこか寂しそうに灰谷兄弟を眺めては顔を歪めたりと、あいつの残したモンは大きい。
そういうオレも、春千夜のように多く差し入れにコーヒーを買ってきちまうもんだから腹が水分で苦しくなることもある。
人のこと言えねえなあ、なんて何本目かわからない煙草を口にすると事務所に春千夜が駆け込んで来た。
生憎今はオレひとり、春千夜に視線を向けると春千夜は真っ青な顔で息を整えると口を開く。
「……あの、馬鹿兄弟やりやがった……」
「は?」
「姐ちゃん恋しすぎて、ガキ誘拐してきやがった……!」
悪い、なんだって?
ぽかんと開けた口から火をつけたばかりの煙草がぽとりと落ちた。
今日はまだヤクをキメていない春千夜が言うには、さっきまで取引に行っていた灰谷兄弟が見知らぬ子どもを連れて帰ってきたんだと。
その子どもを大事そうに抱えた竜胆と、満足そうに笑う蘭に春千夜も何も言えなかったらしい。
どこから攫ってきたのかわからねえが、ねえちゃんいたから連れてきた、と。
「いやいやいやいや、冗談キツいな……」
「マジなんだよ!!ガキなんか怯えきってんし、多分攫って来るときに親殺してる……」
「……名前は死んだんだぞ」
「わかってんよ!でも、確かにそのガキは姐ちゃんにそっくりで、あの馬鹿共嬉しそうで、オレもうどうすりゃいいのかわかんねえよォ武臣ィ」
姐ちゃん、なんで死んじまったんだよ……
ぐしゃぐしゃに顔を歪め、春千夜がソファーに蹲るように腰を下ろす。
オレよりも春千夜の方が灰谷兄弟とも名前とも付き合いがあったからだろうか、名前が死んだこと、それで灰谷兄弟がとち狂ったこと、思ったよりダメージがでかいようだ。
かける言葉なんてオレにはない、というかここの誰もがそんな言葉なんて持ってない。
なあ名前、オマエならどうすんかな。
姐ちゃん、姐ちゃん、と涙声であいつのことを呼ぶ春千夜の肩に手を置くことしかオレにはできなかった。
あの馬鹿共やりやがった、平静を装っているどころか姐さんが死んでとっくのとうに狂ってたんだ。
心底嬉しそうに笑う灰谷兄弟、それを言葉をなくして見つめるオレら。
三途が耐えらんねえ、とひとり別室へ向かうくらいには、この空間は異常だ。
ボスもわかりやすく眉根を寄せて灰谷兄弟とひとりの子どもを見ている。
灰谷兄弟が仕事帰りに連れて帰ってきたのは幼い子ども、女の子。
ああ、姐さんに似てると言えば似ているな。
まだ二歳か三歳か、そのくらいの幼い子どもは大の大人ふたりに挟まれて居心地悪そうにして怯えていた。
三途から事のあらましを聞いた明司が言うには、灰谷兄弟はどこからかあの子どもを攫ってきたらしい。
しかも、親は既に殺していると、目立ちはしねえがあのスーツの返り血が答えなんだろうな。
「……オマエら、その子返してこい」
絞り出すようにボスがそう言う。
心做しか、いつもより顔色が悪い。
姐さんは死んだんだ、不運な事故で、即死で、描きかけの絵が真っ赤な絵の具でぐちゃぐちゃになるような、そんな事故で死んだ。
生きているわけがねえ、ましてや子どもだなんて、生まれ変わるわけでもあるまいし、そんな夢見てえなことあるわけない。
とっくに灰谷兄弟は限界だったんだ、似ているからってだけで見ず知らずの子どもを親を殺して攫ってくるくらいには。
ボスの言葉に、ねーちゃんが帰るのはオレらのところだろ?と竜胆が首を傾げる。
そのねーちゃんがいないのはもう知ってるだろう?
冷たく横たわる姿を見ただろ?荼毘に付されるところまで見届けただろ?
なのに、なんで、姐さんじゃない子どもをねえちゃんと呼ぶんだ。
吐き気がする、頭痛がする。
けれど、蘭も竜胆も、姐さんが生きていた頃のように生き生きとしていて、子どもがふたりを見れば心底嬉しそうに破顔している。
「……あのガキにゃ悪ィかもしれないが、ふたりが立ち直るためなら仕方ないんじゃないか」
ぼそりと、望月がオレに耳打ちした。
わかってる、あの子どもを連れてきてからあのふたりが以前のようになったんだと。
けれど本当にそれでいいのか?
オマエら姐さんが、名前さんが好きだったのに、いいのか?
なあ姐さん、オレどうすればいい?
なあイザナ、オマエならどうする?
まともなのはオレだけか?いやそんなことはねえ、ああは言ったが望月だってわかってる。
オレらは姐さんとも付き合いが長かったから、灰谷兄弟がどのくらい打ちのめされたのかだって、どのくらい苦しんだのかだって、わかっている。
なら、ならせめて、あいつらが立ち直るまで見届けてやらなきゃなんねえ。
蘭って呼んで、竜胆って呼んで、なんて子どもに甘えるように言う灰谷兄弟と怯えて戸惑う子どもを、オレらはただ見ているしかできなかった。
もしもの話。
壊れてしまったものは二度と戻らない話。