灰谷兄弟が子どもを攫ってきて一週間が過ぎた。
あの子どもを姐ちゃんの名前で呼んで、自分たちを名前で呼ばせて、傍から見りゃ狂ってる、どう見ても。
ニュースにだってなっていた、両親を殺された挙句誘拐された女の子。
何が起こったかなんてわかってねえんだろう、漠然と父親と母親がもういないことだけ、あの馬鹿兄弟に囲われていることだけは、わかっているかもしんねえけど。
まだ幼いから灰谷兄弟は常にあの子どもを連れ歩いている。
この事務所に置いて仕事に行っちゃいるし、姐ちゃんが生きていた頃のように戻ったようには見えんけどな。
ちょこんとソファーに座っている子どもはマイキーからもらったたい焼きを小さな口で頬張っていた。
確かに、姐ちゃんに似ている。
あまり変わらない表情も、ちょっとした仕草も。
でも姐ちゃんじゃねえ、姐ちゃんは死んだから。
マイキーが少しだけぼやいていた、気持ちはわかるよ、と。
子どもはマイキーにぴったりとくっついて、口端の餡子を拭われると擽ったそうにしている。
「……いいんスか、そのガキそのままで」
「この子のことを思うなら、孤児院にやった方がいいんだろうな」
「そうっスね」
「でも、蘭と竜胆は?」
「……」
「この子がいることであいつらが前のように戻ってんなら、オレにはどうすりゃいいのかわかんねえよ」
それはわかっている。
多分、この子どもを灰谷兄弟から取り上げたらどうなるのかくらい察しているつもりだ。
だからか他の幹部連中も特に何も言えない。
そもそもオレを含めた全員にとって姐ちゃんの存在はデカすぎたんだ。
九井はやけに貢ぎたがるし、望月は構いたがる、鶴蝶は離れたところから見守っているし、武臣は煙草を吸う本数が減っている。
もしも、もしもさ、姐ちゃんが生きていてこの子どもが姐ちゃんの子どもだったらきっとこんな苦しくはならなかったんだろうな。
灰谷兄弟がこの子どもに求めるものが異常だなんてこと、起こるわけなかった。
姐ちゃんがいない今、ただのたらればだけどな。
ヤクだって飲む気になれねえ、飲んでハイになったところで落ちついてきた時に襲うのは姐ちゃんがいない現実だ。
ほんっとさァ、梵天の首領や幹部陣にこんな思いさせんのは姐ちゃんだけだよ、死んでもひでえダメージ与えていくんだな。
「三途、この子の身辺調査は?」
「ああ、九井が昨日終わらせてた。一般家庭の第一子、顔は姐ちゃんに似ちゃいるが血縁関係なんてない、ただの他人」
腹がいっぱいになったからか、子どもはうつらうつらと眠そうに船を漕ぎ始める。
そんな子どもを膝の上に乗せ、マイキーが寝かしつけるのを見ながら話を進めた。
本当にただの他人。
なんだっけ、ドッペルゲンガーっての?
この世には顔の似ている人間が複数いるって話。
それなんじゃねえかな。
まあ、ただの他人でも灰谷兄弟には関係ねえか、姐ちゃんが、福寿がいりゃいいんだろうなあいつらは。
「……せめて、この子が穏やかに過ごせりゃ何も言わねえよ」
「この組織にいて穏やかねえ……」
「姐さんは少なくとも穏やかだったろ」
「オレらや灰谷兄弟を吊るし上げる時点で穏やかじゃねえと思うな」
「誘拐されたことはあっても最期は何も関係ねえところで逝けたなら、それは穏やかだ」
そういうもんかねえ。
すやすやと、穏やかな寝息を立てる子どもの優しく撫でるマイキーになんとも思えぬまま溜め息をひとつ吐いた。
「ココちゃ」
「ん、どーした」
「……ん!」
小さな両手をこちらに伸ばすガキに応えるように手を伸ばして抱き上げた。
ふにゃふにゃの小さな体、高い体温に少しほっとする。
本当なら、本来の名前で呼んでやりてえけど、それを灰谷兄弟に見られたら後がどうなるかわからねえ。
刷り込まれるように名前と姐さんの名前で呼ばれるガキは、戸惑いながらもそれに応え、その度に灰谷兄弟は嬉しそうに破顔する。
なんとも言えねえ、けれど気持ちがわからねえわけじゃねえ。
きっとオレがイヌピーに向けていた感情に似ているから。
赤音さんとイヌピーを重ねていたように、灰谷兄弟はガキと姐さんを重ねている。
何もわからねえ、蝶よ花よと育てられた小さなガキ。
一身に両親からの愛を受けて育っていたのに、姐さんに似ていたからって身勝手な理由で両親殺されて攫われて、今度は歪んだ愛を注がれているなんて笑えねえな。
姐さんのように、黄色い花の由来の名前になんて偶然だ、とひとりで乾いた笑みをつくった覚えがある。
「あの馬鹿兄弟帰ってこねえなぁ」
「らんちゃとりんちゃ」
「そう、蘭と竜胆」
「ん……」
「飴ちゃん欲しい人ー」
「あい!」
可愛らしく目を輝かせて手を挙げるもんだから、ポケットに入れていた小さな飴を小さな手のひらに乗せればガキは嬉しそうに笑ってありあとーと言う。
姐さんに似ているのは顔だけだろうに、姐さんは無邪気に笑う人ではなかった。
でもオレと絵の話をして、オレが手放しに褒めれば嬉しそうにしていたっけな。
ガキと一緒にいる時間が経てば経つほどそのちょっとした穏やかな表情が書き換えられていく。
それが怖い。
姐さんを、ガキと思ってしまいそうで。
「お、なんだ、灰谷たちはまだ帰ってきてねえのか」
「もっち!」
「おう、まだ帰ってきてねえよ」
事務所に望月がやって来ると、ガキは飴を口の中で転がしながら今度は望月に腕を伸ばした。
望月はそれを笑いながら応えるようにガキをオレから受け取る。
遊んでくれるからか、意外と強面の望月にも懐いているようで、肝が据わってんなと思うんだよな。
「もっちー」
「おう、今日はご機嫌さんだなぁ」
「あめちゃ、ココちゃ」
「ああ飴もらったのか」
「……こうして見るとオマエがその子の父親みてーだな」
「やめろやめろ、灰谷に聞かれたら後が面倒だぞ」
舌っ足らずにもっちーと呼ぶガキは首を傾げ、らんちゃ?りんちゃ?と口にする。
本来ならこんなところじゃなくて両親に愛されて育っていただろうに、可哀想だなとすら思っちまう。
そう、姐さんに似ていてもそのまま一般人として育ってくれりゃよかったんだ。
姐さんを思うなら、このガキはそっと光の下で生きているべきだったんだ。
それができなかった、あのふたりは。
姐さんが好き過ぎて、喪った事実を受け入れられなかった。
オレは時間がかかって、そしてイヌピーがいたからできたけど、あいつらには時間もなけりゃ受け止められる人間がいなかった。
それもそれで、あいつら可哀想なんだろうな。
「……ま、あのふたりがさらにおかしくなんなきゃいいか」
「その時は、オレらがなんとかしてやろうぜ。何の因果かこんなとこにいんだからよ」
「だな」
難しい話はわからないとばかりに首を傾げでむっとするガキの髪を望月が乱すように撫でる。
真っ当になんて生きらんねえかもしんねえけど、このガキが福寿だと、姐さんだというのなら守ってやらなきゃな。
そう思うオレも実はもうとっくにおかしかったりして。
はは、と笑うしかできなかった。
もしもの話。
壊れたら壊れたまま。